元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「がつがつ」している状態が幸せか

現状満足と現状を「幸せ」と感じることは、違うのか? という僕にとって重い命題があります。

つまり、「伸び」の話です。現状に満足をしてしまうと、人間的に(金銭も含め)もう伸びないのか?

常に、飢餓感のようなものを持ち、「がつがつ」としていなければならないのか?


「がつがつ」しているけれども、現状は「幸せ」と感じる。これは、矛盾はあるのかないのか?


2009年の僕の、重要なテーマだと思います。

これも昨日書いた、僕の抱負「様々な矛盾が実は両立できるのではないか?」の一環なのでしょう。


現状は幸せでも人間は、常に目標をもっていないとダメだと思います。それはまったく矛盾しません。

つまり、「目標がある人生」こそが幸せであるということ。
ひとたび目標を持ってしまえば、それに向かって「がつがつ」することになります。

目標達成のための努力であるから、それも幸せなことです。(その努力の方向性が間違っていなければ)

その「がつがつ」は、飢餓感を感じるほどの「がつがつさ」でなければならないか?
それも、その目標が非常に遠いところにあるならば、確かに必要なのでしょう。

でも、現状不幸に陥るほどの飢餓感であれば、それは目標自体が間違っているということでしょう。


幸せとは、僕のイメージはなんとなく「ほんわか」しているイメージがあり、それは僕の中では「停滞」と結びついてしまう。

たとえば、富と財産を手に入れたとしても、日常の手間仕事を使用人にやらせてサボるようになった時点で、「停滞」そして堕落がはじまってゆくような。
ひとつのたとえですが、そんな気はします。

「ほんわか」ムードの中でも自分をきっちり追い込み、努力してゆくことは可能なはず。


僕の、教育方針とまではいきませんが、考えていることがあって、それは「コドモには貧乏はさせないけれども負荷はかける」ということです。
今日、いろいろ書き出してみてこれを思い出しました。結局はそういうことなのだと思います。「かわいい子には旅をさせよ」と。かわいい子であれば、ホントにスラム街に放り込むことはないのです。厳しく旅をさせるが、帰る場所、暖かい家で常に待っていてあげるということ。