元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「自販機地蔵」

  • 「自販機地蔵」

たとえば、街を歩けばそのあたり一帯に設置してある「自販機地蔵」。。
あるいはコンビニ。商店、etc。。

僕らは、生きていればいたるところに小銭を「納めて」います。

それどころか、そもそも僕らは、生きているだけでそれなりの税金を納めています。

そしてなぜ、これ以上、「恵まれないコドモたち」やら、「環境破壊を食い止める」やら、そういう「遠いところ」に「募金」(カネの巻き上げ)をされなければならないのか?

そして、なぜ庶民の多くは、ほいほいと巻き上げられてしまうのだろうか?(喜んでいるようにもみえます)

これこそが「洗脳」ではないのか? と、確信に変わりつつあります。


そういう援助的な行為は税金をもとにやればよいのです。(ホンネは、イヤですけども)
庶民のサイフから直接カネを取り上げる必要はない。僕は、直接カネを取り上げる「のは許さない」ぐらいの思いでいます。

そして、もっとも大事な、議論すべきことがふたつあって、まず、庶民のサイフから直接取り上げても、そのカネがダイレクトにその現場(たとえば、「恵まれないコドモ」がいるところ)に届く可能性がとても低いのだ、ということ。(ゼロだとは申しません)

個人や民間団体というのはアヤしすぎます。国家や、自治体や、一般の企業の組織の力で、直接その現場に届けるべきなのです。


そして、なぜ、きっちり税金を納め、残ったカネで質素な暮らしをしている僕らが、寄付や募金の類を行わないことで罪悪感に苛まされなければならないのか?

なぜ、そういうわかりやすい、直接的行為だけが賞賛され、日々地道な暮らしをし、国民の義務である税金を納めているというベースとなる行為は無視されるのか?

。。おそらく、2年ぐらい前の、僕のこの日記のメインテーマ、怒りのツボは、このあたりでした。


僕は、募金や寄付をたかりにくる団体、個人がきっちり納税し、庶民の暮らしを全うしているかというと、疑問に思わざるを得ません。

アカの他人にカネをたかりにくるところからして、そもそもアヤしいのです。

「カネ」というのは、ホントに、取り扱い注意のシロモノなのだということを、僕らはもっともっと認識すべきだと思います。