元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

隣の芝生が青いうちは環境問題は解決しない

  • 隣の芝生が青いうちは環境問題は解決しない

「まずやれるところから」などと最初からエクスキューズしているヒトたちと比べ、そもそも移動に自動車を使うことがほとんどない僕らは、胸を張って、環境破壊抑止のために貢献している、といっていいのです。

どうも、自分たちはやってるんだぞ、と、アピールしたがりなヒトが多すぎのような気がします。

僕のコドモは、すぐ、他人の家や、トモダチなどに対して「うらやましい」といいます。
だから、コドモは環境問題を解決することはできません。
つまり、欲求が深い人間は「環境問題」サークルに参加することはできないはずなのです、本来は。

僕、というか僕が中心となって形成している家庭は、4WDを駆って定期的に「アウトドア」へ環境破壊しにいくヒトたちよりも、次元の高い生活(イコール「質素な」生活)をしているのだ、という意識を持つべきだと思います。

ただしそれをおおっぴらにはしませんが。。ココロに秘めているだけでいいのです。

そういう「4WD一家」ほど、やけにペットボトルを分別したり、「やれるところから」一生懸命やっていたりします。

それはなぜかというと、そもそも潜在的に、世の中に対してうしろめたいからです。

自分たちの欲求に忠実になろうとすればするほど、世の中に対してはうしろめたくなってきます。
それは、21世紀になってますます拍車がかかっていますし、それはそれで悪いことではないように思えます。

そんなにうしろめたいのであれば、まず、自分たちの欲求に忠実になることを、やめる方向にもってゆけばよいのです。

ですが、元来庶民こそが欲深い存在ではあります。

欲深い存在は環境破壊抑止に貢献することはできない。ということはイコール、庶民は環境問題抑止に貢献することはできない、という一旦の結論で問題ありません。

自分の日常行為のプラス(「環境に優しい」)とマイナスのトータルで、考えてみるべきなのに、それをしないのはなぜでしょうか?

1のプラスを毎日続けても、日常生活において100のマイナス行為をしているのであれば、何ら意味はありません。

僕ら一人ひとりが地道な活動を続けていても、大企業が経済活動で環境を破壊しまくっている現状では、僕らの活動は日本のトータル的には何ら意味はありません。
企業活動というのは、個人の活動と比べて、ケタが違うのです。

企業が、エコだのなんだのに頑張っているようにみえるのは、あれはカンゼンにポーズです。

彼らは、自分たちが不利益になるほどの活動まではゼッタイに踏み込みません。
彼らが今ポーズでやっている、環境に対する活動というのは、あれは、それをやることで業務が効率化されたりとか、自分たちの経済活動にもプラスの効果をもたらすから、やっているだけのハナシです。

企業が、赤字を出してまで環境活動を行うわけはありません。
それは、庶民と同じです。庶民は、自分たちが不利益になるぐらいまで突っ込んでエコ活動はしない。だから、「やれるところから」というキーワードが跋扈してくるわけですが、やれるところからやっても何ら意味はないのだ、という前提で始めなければならないのです。

庶民が行うそういう活動というのは、なぜやるのか? といえば、「節約」につながるから。それだけです。
おカネが浮くから、というモチベーションがあれば、庶民はやっと重い腰をあげます。
でも、それでいいのだと思います。企業や自治体が率先して痛みを伴う行動をしていないのに、庶民にだけ犠牲を強いるのはおかしいのです。