ふたたびダイエット批判(か?)
こうありたいまたは反面教師
- ふたたびダイエット批判か
寝ながらにして、とか、バナナを食べるだけで、とか、そういうのを聞くと「世も末だなァ」と思います。
でも、技術の進歩というものはそもそもそういうところに力点がおかれて進んできたわけで。。
人間の、楽になりたい、楽したいという欲求ですね。
それが、人間をぐうたらにした、というよりも、具体的には人間から「継続する力」を奪っていったわけです。
ところで、テクノロジーにより世の中が便利になってゆくことにはほぼ賛成なのですが、「バナナを食べるだけでやせられる」という「便利さ」に拒絶反応を起こすのは、なぜなのでしょう。
後者はそもそもインチキだからでしょうか?
いや、それだけではないような気もします。
世の中が便利になってゆくのはよいのですが、たとえば公害だったり排気ガスだったり、それにより人間を不幸にしてゆくようなものに対しては、嫌悪感があります。
それは、アタリマエのことです。
でも、そういうのもだんだん減ってきました。技術の進歩のために一部の底辺層の人間を犠牲にすることは(表面上)なくなってきました。
ただ、たとえば都心を走っているクルマたちをみていると、こんなにクルマが増えてどうするんだろう、と思ってしまいます。
もう、行き着くところまではきたなあ、と。。
ゆるやかに人間を不幸にしているモノ、状況については、世の中はなぜか寛容です。
(気付いていないだけでしょうか?)
たとえば、クルマがアブナいからといってうかつにコドモたちを外で遊ばせられないという現実。
クルマばかり片側三車線用意されているのに人間は狭い歩道に押し込められ、排気ガスを吸わされながら肩身狭く歩いているという事実。。
これのどこが文化的なのだろうか? と思います。
僕はたまに、お洒落といわれている街を歩くことがありますが、すべて例外なく醜い。なぜなら、ひっきりなしに走るクルマたちが景観をブチコワしにしているからです。
これは都心だけではなくどこの地方都市であっても同じです。