「布教の精神」(ボランティア批判)
人生観、のような、思想の話
- 「布教の精神」
すごくムズカしいこと。。
僕がライフワークのごとく考え続けているのは、「ボランティア」なんて、なぜそんなことをやっているヒマがあるのか?(他人は)と。
おそらく、何らかの自己満足とか、いわゆる「自分探し」の帰結のためにやっているのでしょうが。。
まず、ボランティアするなら、自分が属する家庭からでしょ、と。なぜ自分の周辺をびしっとさせずに、遠いところへ行こうとするのか? そして実際、行ってしまうのか?
たとえばイラクの奥深くまで潜入していって捕まってしまう、あるいはコロされてしまう。。
結果、家族に多大なる迷惑をかける。。
なぜ「妻子」(とか)をおいて、よくわからない「正義」とやらのために遠くへ「ボランティア」に行く必要があるのか?
なぜそこまでやるのか?
というのは素朴な疑問です。
そこまで駆り立てる「何か」というのは実は「悪」に近いものなのではないでしょうか。
自衛隊なら、ふに落ちるのです。あれは仕事ですから。
近所、近隣、近くに目を向けない。
自分の手の届く範囲で「ボランティア」しても「カッコつかない」だけでしょう?と。
という僕の思いは、相当強いです。だから僕は、世間一般的な「ボランティア」の精神というのは相当キラいです。
外に出る前にまず周りを固めるのが先です。
ところで、最近読んだ本の受け売りなのですが。。(その本は忘れてしまいました)
一方、キリストというのは、自分の生まれ故郷では布教をできなかったという話があるそうです。
コドモの頃から自分を知っているヒトたちが大勢いる田舎で、すまし顔で布教などできない。「オマエなにやってんだ」とちゃかされるだけだ、と。
それは、すごくよくわかります。
だから僕などは(布教してるわけではありませんが)田舎が好きではないということを公言して、拠点を都心にうつしているわけです。
キリストの布教というのは完全なる「ボランティア」でしょう。現代のボランティアというものも、自分の地元ではなかなかできないものなのでしょうか。
なんだか、「旅の恥はかき捨て」という考え方に似ているような。。
でも結論としては、誰もがキリストにはなれない。なれるわけがないのです。
誰もが自分とその周辺からは逃れられない。
僕の「ボランティア」に対する嫌悪感につながってくるのですが。。海外とかに出てゆく「ボランティア」ってキリストを気取ってませんか?と。
つまり「布教の精神」です。
アナタはそんな器ですか? と。
そして、アナタは外国で何を布教できるのですか? 外国で力仕事してボランティアを気取っていればそれでいいのでしょうか?
海外で医療活動をしている、というのであれば腑に落ちます。さきほど書いたとおりそれは「仕事」なのですから。
自分の「地元」に根付けない事実に対してもっとネガティブな評価をしてよいと思うのです。
つまり、外に出ている、外国でボランティアしているとか、そういうことに対する世間的評価が高すぎるということ。
外国を放浪しているということは地元に貢献していないということで、マイナスなのです。
ただイヤだから、地元を飛び出す。そして飛び出した先でも根づくことはない。
ただイヤだからという理由で飛び出したのであれば、どこでもイヤになります。
僕は、生まれ故郷には根付けない落第者ですが、今の生活には根付いているという自負はあります。
重要なことは。。
たとえばボランティアとかで海外に人間が飛び出していっているのは、「海外旅行」となんら変わらない。なぜなら、そのボランティアの動機というのはほとんどの場合「自分探し」だからです。
日本人がどんどん海外に飛び出しているという事実はあるのでしょうが、それが必ずしも国力の国外流出にはつながらない。
遠まわしに相当ヒニクをいっていますが。。仕事、ショービジネス、プロスポーツ、芸術などの分野で日本の才能が海外に飛び出していくのは手痛い国力の流出であり、それは食い止めなければならないのですが、ボランティアは別にかまわないということ。
日本にいたくないのならどんどんいっちゃってください、と。
なんだかよくわからない「崇高な精神」でボランティア活動にいそしんでいるのであれば、その精神すら疑ったほうがよいのです。その崇高は相当、独りよがりであって、たとえば僕がどこかの先進国でない国に旅行にいってぱーっとそこでお金を落とせば、それだけでものすごい国際貢献なわけです。
俗にまみれていたほうが「国際貢献」とやらはできる。方法はいくらでもあります。
なぜ「俗」なほうに対して目を背けるのか。。