元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

主体的に

人生観、のような、思想の話

  • 主体的に

これだけ物質的に豊かな世の中で(受動的に)生きていて、精神的に豊かな生活ができないというのはまさに「自己責任」なのではないかと思います。

物質文明の恩恵は受動的に「享受」することができますが、精神的に豊かな生活は待っていれば享受できるわけではないのです。

同じ手法ではダメなのです。主体的でなければ。
誰かがアナタをコーディネートして、自然とアナタの生活が(精神的に)豊かになるわけではないのです。生まれたときから物質的に豊かな生活に恵まれていたのは「たまたま」なのです。


と、いうことに、遅まきながらですが気付いただけでも良かったと思います。
ですが、このように書き出しているおかげで考えがはっきりしてきていますが、人生というのは受け身ではダメなんだろうなあ、というのは、相当昔(中学ぐらい?)から漠然と考えていたように思います。

受け身ではなく主体的に行動を起こせばたいがい、回り道になってしまうのですが、それでもよいのです。受け身にしていたら誰かが最短コースを教えてくれるわけがない。回り道をして、迷いながらうろうろしているからこそ誰かが手をさしのべてくれたり、教えてくれたりするのです。

また、ヒトは迷っているうちに自己解決の手段を見つけてゆくものです。受け身にしていたら見つけることすらできません。そうやっていくうちに、主体的な人間とそうでない人間との間には「ヒトとして」の「器」(のようなもの)の容積に差が出てきます。

その、うろうろしているときに「びっとしたもの」をもっていないと、悪徳なヒトたちにつけこまれてダマされてしまうので要注意です。
そして悪徳なヒトたちというのはブラウン管の向こうにもいます。

自己解決の手段を見つけている、あるいは見つけようとして主体的に動いている人間に対してのみ、もっとレベルの高いヒトたちが手をさしのべてくれるのだろうか。

言い方を変えれば、手をさしのべてくれるのは、そのヒトの器相応のヒト、ということになりましょうか。

ある程度自己解決手段を見つけている人間は、それができていない人間のハナシには聞く耳もちません(おそらく)。そもそもハナシがつまらないと感じるのでしょう。

そして逆に不思議なことに、受け身で諸々の人生の解決手段を他人に見つけてもらおうとしているヒトたちは、自己解決を是とする人間のハナシを聞かないのですねえ。
なぜなのでしょうね。