元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「不安を押し売りされたような感じ」

抜粋・紹介


(略)
アニマの非常にわかりやすい例は”永遠の女性”というイメージですね。それは、人生においてひたすら追い求めていかねばならない最高の女性像ですね。しかし、罪深いわれわれのつねとしてあくまでも生身の肉体を具えた低い段階の”肉なる女性”が往々にして夢に出てきますね。そういう夢を見ると、ぼくらのような俗人はいいんですが、聖人は仰天しますね。

谷川 聖人はそういう夢を見ると仰天するのかなあ。われわれは仰天するどころか楽しんでいるけど。

聖人みたいな人は恐れを感じますね。だから、そういう夢を見ても言わない人もいます。見たということを恥じてね。「誰でも見るんですよ」といったらほっとする(笑)
(略)

谷川 たとえば思春期に夢精するというようなことがありますが、そういうときの女性像は最も単純な一番表面的な形なんですね。

ええ、その女性像がいろいろ変化してきて、もっとロマンチックな女性になったり、もっと叡智を具えた女性になったりする。ユングが「インディビデュエーション(個性化)」とか、「セルフ・リアライゼーション(自己実現)」とか言っているのは、そういう自分の内的なイメージが変わって発展してゆくことを示しているわけです。

谷川 それは普通の意味で、人格というか、人間の成熟というふうに考えてもいいんですか。

いいと思います。(略)



ユングも影について、「自分の生きなかった反面」という言い方をしています。つまり、自分の人生で、ある面を生きていくということは誰でも別のある面は生きてないわけでしょう。その生きていない半面が、同性の姿をとって夢にあらわれるわけです。たとえば、よくこんな夢を見るでしょう。自転車に乗っていて、ハッと運転席を見ると、自分のきらっているやつが運転していた。それが影の典型です。

谷川 影というのは必ず自分以外の人間となってあらわれるんですか。それとも、夢の中で自分が思いがけない行動をしたとかいうふうに出ることもあるんですか。

自分が思いがけない行動をしたような場合、たとえば普段おとなしい人がおやじを殴った夢を見たとすると、それは影的なものが自分に非常に近くなっていることを示しています。逆に「誰か知らんけど出てきて、何かくれたようです」というようなわからないだらけの夢があるんですが、それは自分の影に対する自覚が非常に薄いわけです。そういうときは、こっちも「何でしょうねえ。今度はよく見ていてくださいよ」としか言いようがない。


谷川 分析家の役割というのはたとえば社会運動を始めて、先頭に立って旗を振るとか、あるいは政治家に打って出るとかいうことではなくて、自分たちが扱う一人一人の患者の内面に、そういう社会に対して抵抗できる力を回復させていくことですね。

それともう一つは、分析の過程で実際にぼくが見たことを書くことだと思うんです。キャンペーンみたいなものですね。もちろん一人の人間の内面的な秘密ですからあまり公にできないけれども、そこにぼくが見てとった社会的問題というのは、やっぱり社会に対する一種の警告という形でずっと書き続けるべきなんですね。それもぼくの役割だと思っているんです。
普通は、社会に対してものを言う場合、いわゆる社会的な情勢とか調査とかをもとにするでしょう。ところがぼくは一人の個人を取り上げるところからものを言うわけです。これは考えたら危険きわまりないことですが、ぼくとしてはそれだからかえって通用し得るんじゃないかという気がしているんです。

谷川 社会というものはつねに一人の個人においてしか、あらわれないものでしょう。でなければ単に統計的にしか出てこない。しかし、本当に人間の魂を問題にしながら社会をどう改めていくかということを考えた場合には、迂路かもしれないけれども、その方法が一番正しいという感じがする。


谷川 自我というものが時代の社会的な条件で管理されてがんじがらめになっているからこそ、われわれは奥へ奥へ、自己へ自己へ行こうとするんだけれども、なかなか本当に解き放たれた広さを持つ自己には行けないまま中途半端なところへ出てきちゃって、結局またもとのもくあみになるということを繰り返している。いわゆる前衛小説とか前衛的な詩とか、前衛的な音楽、舞踏、絵画、すべてに似たようなことが言えるような気がするんです。

われわれのいまの社会にある統合というのは、自我による統合でしょう。それをさらに深めた自己の次元の統合への動きが背後にないといけない。ところが実際には自我の次元でのみ破壊が行われているために、いたずらに破壊のための破壊を標榜するいわゆる前衛芸術に接すると不安を押し売りされたような感じになって、むしろ昔のほうがよかったということになっているような感じがしますね。



たとえばある人が赤いチョッキを着ているのを見たときに、「なぜこの人は赤いのを着るんだろう」とかいうふうに考え出す。ところが感情型の人は、「ああ、似合っているなあ」とか「ちょっと不釣り合いだな」とか、そちらからいくわけです。そして、それがなかなか両立しないというんです。
(略)
直観と感覚というのは相対立している。感覚型の人は物そのものをそのとおりに見るのに対し、直観型の人はその背後にあるものを見るんです。(略)ユングは感覚タイプの人も直観的なひらめきを無意識的に持っているし、その逆もある。思考型と感情型もまた同じだというんです。だからそれを何とか自分で統合していけば、相当変わるんじゃないかと。
(略)
経験的に言えることは、いろんな事情で自分のタイプと違う種類のことを無理矢理にやらされて困っている人が結構多いと思いますね。

谷川 ということは、たとえば自分が感情型だとすると、それを思考型に変えていこうとしても、できる部分とできない部分があるということですね。

努力すれば相当できるけれども、無理に得意な方を捨てて不得意な方に努力しすぎると、それこそノイローゼになったりするということは言えると思います。
(略)

谷川 自分がどのタイプであるかと自覚していた方が、日常生活において生きやすいですか。

生きやすいというより、その方がおもしろいですね。それと、自分と違うタイプの人をきらいになることからずいぶん救われるんじゃないでしょうか。たとえば私が直観タイプだとしますと、へたををすると感覚タイプの人に対してむちゃくちゃ言うわけでしょう。(略)ところが向こうに言わせると、あんなちゃらんぽらんな男はいないということになる。そういうふうにけなしあうよりは、自分にない能力をあの人は持っているんだと思うと協力関係が結べますね。

谷川 (略)好ききらいというふうなものはやはり残るんでしょうか。

人間というのはそれほどうまくできていないから、いくらがんばっても好ききらいは残りますけど、好きなことがふえるのは事実です。

(抜粋・紹介おわり)


「不安を押し売りされたような感じ」でむしろ昔のほうがよかったということになるというのは、まさに現代社会がそうですね。そしてそれを担っているのは、前衛芸術ではなくテレビです。