「器」のかたち
人生観、のような、思想の話
- 「器」のかたち
僕はいつも、人間の「器」の大きさを問題にしているように思います。器の大きさは可変なのか、人生経験により大きくなったりするものなのか、器とは生まれつきのものなのか、幼児教育と人間の「器」とはどれぐらい連関があるのか、などなど。
今まで気にしていたのは、結局器の大小、すなわち「容積」だったのですが、みなさんの「器」には、「かたち」という名の個性があるのだなあ、と。
これは僕のなかではすごい発見だったのです。
同じ容積であっても、「かたち」は十人十色なわけで。
かたちが変わりながら器が大きく(あるいは小さく)なってゆくヒトもいるでしょうし、同じカタチで大きくなるヒトもいるでしょう。
そのヒトの人生を規定するのは「レンジ」なのですね。
たとえば容積にせよ、かたちにせよ、ミニマムとマックスがある、と。
そのレンジが個性を形成するわけです。
誰もがプロ野球選手になれるわけではない、というのはこれを端的にあらわしています。
その「レンジ」すらも可変なのかどうかはわかりませんが、ヒトは、それがマックスになる方向へ向かって人生進んでゆければ、幸せなのだろうなと思います。
器の大小にこだわるよりも器の「かたち」にこだわるヒトが最近多く、僕はそれに警鐘を鳴らしたいと思っています。
かたちも確かに大事ですが、それよりもまず「容積」にこだわったほうがよいのでは?と。
いわゆる「個性的」な「かたち」をしていても、ほとんど何も入らないのであれば、イマイチかな、と。