葛藤の深さと、その反動
死、あるいは宗教に近い話
- 「葛藤の深さと、その反動」
と、メモ帳に残していたのですが、いったい何を感じてそう残したのだろうか、と。。
青春時代、あるいはしかるべき時代に、社会のカベにぶちあたったり、現実と理想のはざまで呻いたりして、葛藤が深ければ深いほど、その反動で。。
反動で、バラ色の人生が待っているとでもいうのだろうか。
いや、違うなあ。僕はそういう考え方はしません。
深く掘れば掘るほど、出てくるものはスゴい、ということだと思われます。
自分の人生を深く掘り下げれば掘り下げるほど、何かしらの成果が出なければ、やってられない、と。
その「見返り」とはなんだろうか?
それは決して、幸せになれるとかそういう甘っちょろいことではないのです。
「自分を深く掘れば掘るほど、自分が深くわかる。」
アタリマエのことですが、いってみれば、メリットはこれだけです。
別に、儲かるわけでもない。
でもヒトは自分を深くわかりたい。
よく誤解されているのは、深く掘り下げることにより、優れた自分を掘り当てたい、と思っているヒトがたくさんいるのですね。
そういうヨコシマな考えのあるうちは、ダメなのでしょう。。
「自分探し」の一種なのでしょうね。「自分」とやらを外に探しにいくか内面に探しにいくかの違い。。
「今の自分はホントウの自分じゃない(こんなもんじゃない!)」という考え。。
そういう考えを持っている時点で、そのヒトの内面にいくら深く切り込んでいっても、発見されるのは「空虚」だけなのかもしれません。
深くわかるから何か? と考えてみると、「自分を深くわかりたい」というものすごく強い知的欲求が満たされてゆくわけですから、それはそれでよいのだと思います。
それこそ「自己実現」なのでしょう。
書いていて思い出しましたが。。「自分を深くわかりたい」というのは、結局「悟り」ということですね。
昨今、「悟り」というコトバが本来の意味から離れていってしまっていますので、本来の意味での「悟り」。
ちなみに現代でいう「悟り」とは、「オレは選ばれた民になった!(そのへんの庶民から一歩上をいった!)」ということです。
葛藤というのは、内面に切り込んでゆくことです。
たとえば、引きこもりとか、鬱の状態からまれに、うまく立ち直ることができたヒトは、人間としてのスケールのようなものが大きくなって還ってくるといいます。
(ただし、残念ながらほとんどの場合そうはならない)
冒頭に書いた「反動」というのはそういうことなのでしょう。