元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ケミカル(その3ぐらい)都心における自然志向

人生観、のような、思想の話

  • ケミカル(その3ぐらい)

ここのところ忘れた頃に書いている、自分の最近の最重要「お題」である「ケミカル」について。。

僕は、缶コーヒーは週に2回ぐらい飲みたくなります。そのとき、あまり我慢せず、自身の欲求にまかせることにしています。

身体が「ケミカル」物質(缶コーヒーなどはその最たるものに違いありません)を欲するのは、常習性がないのであれば、仕方ないと思っています。

あまりに自然志向になると、それはイヤらしいイデオロギーになってきます。(昨今のエコブームのように)

僕のような「都心における自然志向」では、そのぐらいが精一杯、限界といいますか。。

人工的な緑がお似合いの都心では、ある程度ケミカルを許容するのが「お似合い」というか。。

その程度の諦観はあります。
でも僕はここにいたるまでにものすごく考えました。エコブームを牽引しているヒトたちは、ホンキで考えたのでしょうか? どうもそうは思えない。

再録

現在自分が、この時点から「本」のほうへ向かっても、もう、ただの「アタマでっかち」にはならないだろうな、というか。。「そろそろいいかな?」という気分はあると思いますね。

若い時分は、周囲にはびこる「アタマでっかち」さんたちを見ているとホント、腹立たしかったので。。(今はそんなことはありません)

その「反面教師」が、今の自分の行動様式(「フィールド・ワーク」重視)を確立した、といっても過言ではないわけです。

そろそろ、フィールド・ワークに比してアタマ(脳)のほうがヒンジャクになってきたかな、という気がしているのです。

こういうときなぜか、中村とうようサンのハナシが思い出されます。音楽を聴く素養としては、その国の歴史などを知ることも大事、という。


思想的にもっと深いところに行きたい、というのがあって、そう考えるのなら遠慮なく行けばいーじゃん、と。あくまで「市井」で、生活基盤が確立しているところで、現実逃避にならずに、思想的に深みに行こうとするのが何が悪いのか、と。

そんなのゼンゼン、アタマでっかちではないじゃん、と。

ところで自分は「霞を食って生きる」という状態、そういうヒト(それを半ば誇りに感じているヒト)が大キライなんですよね。


自分はすごく、「アタマがよくなりたい」と思っていて、それは知識と教養の中間地点あたりをイメージしていますが、先日「あ、そっか。。」とひらめいたのは。。

そういえば自分は今でも、「アタマがよくなりたい」と考えているなあ、と。。

じゃあ、本読めばいーじゃん! と。何と短絡的かつ的確な発想。。

だから、実践しているわけですが。。 前にも書きましたがフィールド・ワークはもう足りていると感じているので。。

いろいろなやりたいこと、なりたいもの、の中の最高峰のひとつに位置づけられるのが、この漠然とした「アタマがよくなりたい!」である、という再認識。

それは、外食でおいしいものを食べたい、なんかよりも遥かに上をゆくものでした。

「アタマがよくなりたい」というのは、世の中のことを「誰よりもわかりたい」ということですね。自分にとっては。

「仕組み」を「わかる」だけではないのだ、ということ。もっと先の何か。