元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

人生はやり直せない

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 欲しいものが常に手に届くところにあるのが幸せとは限らない(20070528)

こうありたいまたは反面教師

  • 人生はやり直せない

人生をまだやり直せるとか、そういう考え方をしている時点で、悪い意味で「庶民」じゃないですね。

身の程を知らない。知ろうとしない。逃げている。
(「身の程」を知っているというのが僕の考える「庶民」の定義です)

とかく、「身の程」から目を背けているヒトは多い。

「中の下」ぐらいだったら十分幸せだと、思わないといけません。
今思いつきましたが、飲食店も「ふつうにおいしい」でもう十分ではありませんか。(値段が相応であれば。。)

僕が自画自賛しているmy格言

      • 自分を見つめている人は少なくとも「自分探し」は終わっている(20071201)

とつながってきますね。
庶民は庶民であるがゆえに「自分探し」フェーズはとっくに終わっているのです。たとえば学生時代とかに。
そして、「自分探し」フェーズが終わって身の程を知っているほうが、いくつになってもふらふらと「自分探し」を続けている一部のヒトたち(「いいオトナが。。」の典型的状況)よりもエライに決まっています。

再録

(略)
ホント、客観を気にしないヒトが増えてますよね。。

自分は客観を気にする権化のような存在ですが。。

それを表立って表明することはありませんでしたが、コドモの頃から「人の眼」を相当気にする存在でした。

人の眼を気にしてどうこう、というわけでもないのです。人の眼を気にして「良い子」になるわけでもなく。。

「こういう行動/言動をしたらヒト(親とか)はこういうふうにとるんだな」みたいなことを、コドモながらにずっとウォッチしているような子でした。

そのクセが、自分の人格形成に少しずつ影響していったのでしょう。

「世の中って、ほとんど他人が決めるんだよ」というコトバはすばらしいですね。

たとえば、どれほど髪型をきっちりキメたと自分が思っても、他人はほとんど見ていない。

たとえば、ですが、朝のラッシュ時の駅のホームで、奇声を上げて走り回ったら、ほとんどの他人は自分に注目するでしょう。「オカシなヤツがいてイヤだなあ」と。

単に他人に注目されたい、というのであれば、実現手段はカンタンではあるのです。やるかやらないかは別として。

何かを世の中に向けて主張したいのであれば、その実現手段は自己満足にならぬよう、常に客観を気にしながら考えないといけない。

そういう意味では、外見とか、第一印象とか、他人とまだ「顔見知り」レベルの頃の言動とかは、とても大事である、と常に思ってはいるのですが。

「外見」というのは、各パーツではなくて、「全体」ですよね。「雰囲気」といいますか。