元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

表裏のない

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 自殺というのは自身がとどめをさすだけで、99%他人にコロされている(20071019)

こうありたいまたは反面教師

  • 【重要】表裏のない

ビジネス・シーンでも日常でも、表裏のない性格というか振る舞いがものすごく大事なのだ、ということが、ここ数年でわかってきました。

僕は幸いにもムカシムカシ、コドモの頃から、「表」が無表情だったり無愛想だったり、「何考えているかわからない」だったので、助かっています。つまり良くも悪くも表裏がないです。
そして、どんな立場のヒトに対しても結果的に同じように接している。
上の立場の人間に愛想よくふるまえない。
下(?)の立場の人間にいきなり「オマエさあ」などといえない。

上に対しても下に対しても、等しく、半敬語、半常語です。

ここ数年、これが自分の欠点でなく強みなんだなあ、と感じることができて、よかったです。ラクになれたといいますか。。

でも、初対面の人間に対してはできる限り礼儀正しくあれ、と思っています。それを思い始めたのは最近ですが。。

ムカシは、初対面の人間に対しても「表裏なく」接していました。
でも、ヒトとヒトが出会うとき、というのは、特別だと思うので、今は、ちょっとだけ、初対面のときは「よそゆき」を気取ったりしています。
でも「表裏なく」という基本スタンスは崩さないので「ちょっとだけ」です。つまり、「礼儀としてアタリマエのこと」。


人間はどこかで「裏」を出さなければならないか? 裏になったとたんに上司のグチをこぼさなければならないか? といえば、答えはおそらくNoなのです。
どこまでも「裏」を出さずに生きてゆくことはできます。そしてそれはムリなくできるはずです。

つまり、常に「表」の顔で生きていなければならないのか? という問いと、常に愛想よく生きていかなければならないのか? という問いは、イコールではないのです。

「表」に、自分のストレスなき表情なり、振る舞いを、セットすればよいのです。
「それでは嫌われてしまう 自分の素はドロドロしている」と考える方も多いのでしょう。ところが、実は、ほとんどの人間は「そんなに大したもんじゃない」のです

「表」を変えるとは、「愛想笑い」からいきなり毒づくことではないのです。毒づいてる自分、世の中に対して常に反抗的な自分、というのも、相当ムリがあります。

自分の「素」を過信しているヒトが多いのです。。自分の「素」はもっと「極悪人」である、と。
そんなはずは、ないのです。ほとんどの庶民は凡人であって、仮に裏のどろどろした部分が出てきたとしてもそうカンタンには極悪人にはなれないのです。


ところでビジネスでは、表裏がない、というのはゼッタイですね。これからのビジネス・シーンでは。表裏がある人間は信頼をなくします。その「信頼」こそが、ゼッタイなのです。
飲み屋で上司のグチをこぼしたところで、その風評はあっという間に拡がります。非常にキケンです。
自社の、自分のテリトリの中で取引先の使えないヒトの悪口を言うのも。。ムカシは許されたかもしれませんが、今の時代は、考えたほうがよいかもしれません。
まさに「壁に耳あり 障子に目あり」なのですから。

ビジネスの「コミュニケーション」の一環として「愛想笑い」があるわけではないのです。ここが誤解されているところかもしれないです。

たとえば営業さんだったら、求められているのは表層的な「愛想笑い」ではなくて「誠実さ」と実務処理能力ですよね?
そういうことです。

僕の知っている範囲では、世の中の営業さんというのは、客が見えないところでのグチが多いです。多すぎます。
それを何とかしたら営業成績は伸びると思うのですが。ここでいう「それ」は何か? 「何とかする」とはどういうことか? というのは自身で考えていただいて。