元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

本来の日記部分

隣家の奥さんと継続的に「金妻」を続けており。。(あくまで夢ですから!)

結局それがバレたんですよね。なぜなら、わざわざ自宅の近所で手をつないで「逢引き」しているわけですから。
いつもは遠くで逢っていたのですが、その日はなぜか近所。「タクシーでどっか行こうか?」みたいなハナシをしたと思うのですが、なぜかその気も起こらず。
それどころか、「ちょっと出かけてくる」とかいって出かけたのですが、その奥さんを連れて、勝手口から自分の家に戻ってくるのです。で、ちょっとした客間のような部屋でまったりしていたら、がらっと戸が開いて、戸を開けたのはなぜか実姉。それと後ろにいるのは死んだ祖母。
実姉は、マズい光景をみたなあという感じで、でもスルーして戸を閉めてくれたのですが、やがて自分らは衆目にさらされることとなり。。

確か、隣家の奥さんはウチの妻に「ごめん。。」とかいう台詞を残して去っていきました。残された僕はウチの妻に当然、相当キビしく詰問されることになり。
キビしい、冷酷な表情でしたね。

でも、僕は、それでも「次もまたあるなあ」と漠然と考えていましたし、隣家の奥さんもまったく懲りないという感じでした。

なぜなら僕らはけっこうホンキだったからです。(あくまで夢ですから!)

(おわり)
うーん夜中に目が覚めたときに果たして自分には「このような」願望があるのだろうか? と朦朧とした意識の中で考えましたが。。
夢にまで出てきてしまうのだから全否定はできないだろう、と。

でも、この相手とはほとんどハナシもしたことがないのですけれど。ですが夢というのは案外、そういうノーマークな人材が出現したりします。

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 「オンリーワン」を自他ともに認めるということは選ばれてはいないということ。(20080420)

再録

(略)
何かに書いてあったとあるヒトのエッセイによれば、その人のおばあさんは、夜ふとんに入るときに「あー極楽極楽」というのが口癖だったそうです。

この方は、毎日眠ることを楽しみにしていたということです。この感覚、考え方は、現代のほとんどの方は理解不能なのでしょうし、私も、読んだときはピンときませんでしたが、最近になってわかるようになってきました。

ムカシ、特に戦後を生きた方々は、ホントにキツい日常を送ってきたのだと思います。だから、その1日が終わること、つまり、床に入るという儀式に日常の楽しみを見出していた。

日常の中に楽しみが見あたらなくて、そこに楽しみを「見出さざるをえなかった」というのも、わかるのです。でも、日常の中に継続して楽しめる小イベントを挿入しておけば、すくなくとも日常が続く間すべてで自分をコロすことはなくなります。

そのおばあさんは、もしかしたら無意識で「夢」をコントロールできたのかもしれない。床に入ってから、またキツい日常が始まる朝までの間だけでも、楽しい夢想ができたのかもしれません。

日常の中に継続性のある楽しみを見出すことは、終わりなき「キツい」日常が続いていたヒトたち、もちろん、年に数回の旅行などゼッタイにいけなかったような人達の、生きるために智恵ではなかったですか。

これを我々も取り入れなければならない時期にきているのです。我々が感じている「終わりなき日常」は、退屈であるがゆえに少しずつ、真綿でクビを絞めるかのごとく「キツく」なってきているのです。

これは、高度資本主義社会の恩恵を享受している我々に対して試練として与えられた、恩恵の代償なのかもしれません。