元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

再会は必然

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 海外旅行、つまり外に目を向けることにより可能性は無限に拡がるが、東京の路地裏にも可能性は無限にある。(20060925)

人生観、のような、思想の話

  • 再会は必然

再会は必然です。再会すべきでないヒトとは会いません。会いたくないヒトと再会することもたまにありますが、それはそれで必然性があるようです。

別れの場(卒業とか転勤とか)で、名残惜しむ必要はまったくないのです。それは、余計な人間関係を半強制的に振り切ってくれる機会であり、別れこそ必然。
いったん別れれば、再会する必然性があるヒトとだけ再会するのですから、別れはどんどん「やるべき」なのではないでしょうか。


卒業式とか、自分はおかげさまで学生生活をそれなりに楽しく過ごせていたので甘酸っぱい思い出しかないけれど、実際問題「せーせーした」「やっとこの地獄から抜けられる」と感じているヒトたちのほうが多いんじゃないのかな、と思います。

そもそも学生生活というのは強制的に、よくわからない同学年集団に放り込まれるわけです。その学校を志望して受験するのだとしても、実際、どこの誰が同学年で入学してくるかはわかりません。だからこそ時限たるべきなのであって、自分が望みもしていない集団に永久に放り込まれたとしたら、一定の割合のヒトたちにとっては生き地獄になるわけです。


卒業とは、強制的に放り込まれて、強制的に放り出されるイベントなわけです。僕はそれは、学生時代が「遥かに遠くなりにけり」の最近になって気づきました。

なぜ気づいたかというと、自分は仕事でいろんな現場を転々としておりまして、これって「まんま」だなあと。その現場に入らないと、どういう集団なのか、どういう慣習の現場なのか、わからない。そして、自分の会社ではないので、ゼッタイに「時限」です。甘酸っぱい「卒業」は一切ないけれども、職場を離れることを「卒業」とダブらせて感傷にひたるヒトは多いようです。
僕は、現場を離れるときは常に「せーせー」です。

学生生活と仕事とは、まったく違いますね。


ところで、「一生の付き合い」というのは、それは強制的に放り込まれるわけではない。ですから、強制的にリセットされる必要もない。毎日顔を合わす必要もないです。

近所づきあいは。。ムズカしい。家建てちゃったりしたらそれこそ一生の付き合いになりかねないですよね。
どこかに土地を買ってマイホームを建てたはいいが、隣が騒音おばさんだったりして。。

そういうのを避けるために、自身の「放浪癖」は残しておくべきだと思うのですが。