元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

なむあみだぶつ

死、あるいは宗教に近い話

鈴木大拙が晩年、評価していた無名の「妙好人 浅原才市」の「わたしがほとけで ほとけがわたしで なむだみだぶつ」という「入り込み方」(これは「考え」のレベルを超えているのであえて「考え方」という表現はしませんが)が、かすかにではありますが最近、わかるような気がしています。(僭越ながら、ですが)

詳しい文面は忘れてしまいましたので、もっと違っていたと思いますが、現代社会においてこのような「宗教思想」がなぜ評価できるかというと、
・それは、「私は神であり」という「上から目線」ではない。
・それは、「私は仏様になってしまった」という「(現世で)もう世捨て人になっている」という感覚でもない。
新興宗教家、葬式坊主にはゼッタイこのゾーンには到達できない。

という理由からです。
大拙のコトバを借りればこれが「横超」なのかとも思います。

同じく無名の、市井の、「毛坊主志願」にとっては、地方の、来る日も来る日も畑を耕し、「なむあみだぶつ」と同化して生きていた先達に共感せざるを得ません。

再録

以前、「my格言」に書いたのですが。。
「本当に成功している人とは、やりたいことをできる人ではなく、やりたくないことをやらずに済ますことができる人である」

最近とみに思うのは、「やりたいことよりもやらねばならないことをまずせよ」ですね。やらねばならないことをほおり出していると、落ち着きません。たとえやりたいことをやっている最中でもね。

やらねばならぬことがない状態が、心の平安なのです。