元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

桜 複数人格

本来の日記部分

数日前から開花して、今、いい感じになってきたかなあ、と。

my格言・my座右の銘(自作自演)

  • 他の何者かに自分のライフサイクルを支配されている人間ほど他人に嫉妬する(20070327)

自分について

もうひとつの人格をつくる、というのはこのネット社会の到来である程度実現できてしまっているような気がしますね。

コドモの頃はクラーク・ケントのような存在に憧れたのです。ふだんはさえないサラリーマンだが実はスーパーマン、といったような。
こういう願望を持つのはふつうなのですが、僕はオトナになるまで尋常でないぐらいこの憧れを持続していました。

スーパーマンになりたいわけではなくて、オモテとウラの顔を持ちたかったのです。

それはムリにしてもたとえば、複数のブログを更新してそれぞれ別な人格を演じる、とか、複数のハンドルネームを持つとか、ペンネームを持つ、とか、そういうところで実現して「ガス抜き」をしている感じですね。

複数のシチュエーションで「顔」(名前含め)を使い分けるというのは、これからはアタリマエになってゆきます。

昼はしがないサラリーマン、でも「夜」は別の顔。。というのはドラマでよくあるシチュエーションで、それはそれでカッコいいのですが、自分は夜はもう寝てしまうのでこれはあきらめまして。。「朝」は別の顔、を目指すことにします。

再録

前回の結論は、ムリして頑張ってる人がダシに使われて、多くの現代人は「頑張らなくてもいいんだ」という言説になびくようになり、永久に自分が抱える不満足感から脱出できない、ということです。

その後、よくよく考えてみれば、ムリして頑張っている人にも確かに問題はあって、それは、自らの意志でないことが多いのです。典型的な例は、会社でコキ使われる、とか。

自主的に頑張っているわけではないので、自主的に頑張っていると思い込みたいわけです。

たとえば会社についていえば、会社のために自分の身体をコワしてまで働くのは全くのムダです。そして、誰もそれを教えない。

労働は「それほど」美徳ではないのですよ。

なぜならば、現在、労働と思われている行為のほとんどは会社の策略だからです。

でも。。 会社で働くという行為を選択したのはその人なんですよね。。 だから自業自得、自己責任といえなくもないのですが。。
(略)
「苦労を苦労と思わない」という話につながってゆくのでしょうか。

世間が考える「ムリして頑張っている」状態というのは、すべてが「頑張らされている」ということなんでしょうね。本当に好きなこと、やりたいことを寝食忘れて、身体がコワれるほどやっている状態は、他人がみて「頑張っている」ようには見えない、ということです。嫉妬羨望というバイアスがかかっているから。

あれ? だとしたら、「頑張らなくていいんだよ」とさとす人たちは、間違っていないということになりますね。。 最初はそういう人たちに対する違和感があったはずなのに。

でも、策略により頑張っている人だって、頑張っているには違いはないのです。

この話の基本に立ち返れば、どういうトリガ、動機であれ「ムリして頑張っている(らしい)」状況の人は、ホントにムリしているのであれば、段階的に楽になってゆく状況をつくりだすべきだとは思うのですが、いきなり頑張りをやめろというのは早計だということ。

それと、もうひとつ最初から引っかかっていたのは、「自分はムリしている」と自己申告する人たちのことです。「ムリ」という言葉が軽すぎる、ということ。