「両親の死」(ただし、まだ健在)
my格言・my座右の銘(自作自演)
- 役所は役所仕事だからこそ役所であって役所仕事をやるところにこそ存在意義がある。(20070311)
自分について
- 「両親の死」
自分はもうけっこうなトシですが、両親は健在です。寝たきりにもならず元気で田舎で過ごしてくれていて、それだけで感謝です。
ところで、両親が死んだときのことを強く、リアルにイメージすると泣けます。
縁起でもない、というハナシではなくてこれは、「予行演習」なのです。
自分はおそらく、ホントウに両親が死ぬ場に立ち会ったときに、それほど泣かないと思いますね。「予行演習」をしていますので。(まったく泣かない、ということはないでしょうが)
すごく現実的なハナシで、やれ葬式はどうする、とか、そういう準備も大事ですが、親が死ぬというのはこんなにも悲しいのだ、ということをイメージしておくのはホントに大事だと思います。
でも、なぜこの「予行演習」がホントに大事なのか? という理由をなかなかうまくあらわせない。
「生前葬」? に似ている?
親が死ぬ前に、親の死に目を強くイメージして泣いておけば、あらためて感謝の念も起こるというものでしょう。それはたしかに理由の一側面ではあるのですが。
再録
結局、何年もずっと考えた結果として思うのは、日本における外食というのは、日本人の味にあってなんぼ、ということです。「本場に近いから何?」と。
本場の味でかつ、おいしいのであれば全く問題ありませんし、文化交流としては素晴らしいと思いますが、本場の味をうたって、味はイマイチのことがあります。そういうときリピートしたり知人におすすめしたりしますか?
店の個性という点では、捨てがたいものはありますけど。。昨今マズい店は立派な個性ですからね。。
味がイマイチであればまだ、千歩ぐらいゆずれますが、その国のマナーを押し付けられたりすることもあります。そういうお店はこの日記でいう「苦行」ですね。
またここでもプライドの問題。。 本場の味というのはその店のプライドでしょう。でもそのプライドが邪魔をしてお客を呼び寄せることができなかったらしかたないでしょう、ということです。
商売というのはプライドだけではやってられないんですよ。
無用なプライドは全く不要ですが、謙虚なプライドは感じられなければならないのです。そのあたりのさじ加減は確かに難しいのでしょう。でも、客側に立って客の気持ちを考えてみれば、わかるはずです。
正直いえば、すべての料理はハシで食べたいです。でもそれは私(客側)の傲慢ですし、私はふつうに、日本人の常識レベルでナイフとフォークを使えます。だから、そこまでは譲歩できます。
その「ナイフとフォーク」は「日本の洋食」におけるマナーレベルですから、それ以上になるとカタクルしくなってきます。
カンタンなたとえでいえば、日本では私はインドカレーを手では食べません。たとえそのほうがおいしいのだとしても。
マナーの「押し付け」ではなく、それが「おすすめ」なのであれば違和感は感じません。上から見下す感じで「ここは●●料理の店なのだから、●●のマナーにしたがってもらう」みたいな押し付けではなくて、「私の国では○○を食べるときは△△を使うのが慣習になっているのでよろしかったらやってみてほしい」みたいな感じだったら喜んでやってみますね。それも文化交流でしょう。
客側、マスコミ側も大いに問題です。「本場の味」を賞賛しすぎです。それは、素直に「おいしい」といえなかったときの次に口から出てくる褒め言葉でしょう。
「本場の味」を知らない人も軽々しくこの言葉を口にしますし。
ビジネスでは郷に入っては郷に従うのは当たり前です。飲食店というのは立派なビジネスです。