「回転木馬のデッド・ヒート」 ファンというのは複数のパトロンである
本来の日記部分
- 体調
のどの痛みは継続していますが仕事はふつうにできる状態。あとは粘着な鼻水が出るぐらいですか。
なめ慣れないのど飴が活躍中です。
抜粋・紹介
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/10/15
- メディア: 文庫
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(引用おわり)
とにかく「回転木馬のデッド・ヒート」というフレーズは、僭越ながらとても素晴らしいです。よくこんなコトバ思いつくな、といったような。プロなのだから当然なのかもしれませんが。
この村上春樹さんの文章に対して僕は愛憎反する感想を持ちます。
まず、「文章以外の」「自己表現が精神の解放に寄与するという考え方は迷信であり、好意的に言うとしても神話である。」ということ。僕がキラいな、非日常への憧れを「いいオトナが」捨てきれないアート系のヒトたちがすぐ思い浮かびます。
ですが「書くこと自体には効用もない」というのは、実際僕は書くことにより「精神安定」という効用を実感しているわけですから、(今の自分にとっては)違うと断定できます。
ただしその「効用」とやらはマスターベーションにすぎないわけでして、そういう自覚はありますし、村上さんが指摘したいのはそこなのかもしれません。「社会的」効用はない、ということでしょうか。
「自己表現は精神を細分化するだけ」も納得がゆくのです。でもそれは「どこにも到達しない」わけではない。それは、微分に微分に重ねた結果として、「根源的な闇」(byこれも村上春樹さん)に到達します。そう信じています。
まあ、このフレーズ自体も短編小説の一要素ですから、このフレーズに目くじらをたてる必要もないのかもしれない。
(抜粋・紹介おわり)
再録
物書きとか、ミュージシャンの方々は、大変だとは思うのです。作りたいものだけ作って、それで暮してゆけるわけではありません。
作りたいものがなくとも、それなりの品質のものを作り上げてしまえるのがプロです。たとえば、ミュージシャンが10曲入りのアルバムを作るとしたら、その中で作りたいと思って作った曲は1〜2曲ではないでしょうか。残りの8曲は、そのアルバムのコンセプトなどにあわせて、それなりの品質のものを作り上げなければなりません。
それは、苦しいことなのではないでしょうか。アルバムを、5年以内に何枚出さなければいけない、とか、そういう契約。創造力が枯渇したら、やっつけ仕事になり作品の品質が低下し、売上げ減に直結し、やがて、切られる。。
好きなときに好きなものを作る、という契約が成り立つのだとしても、それでは食ってゆけない。。
だから、依頼作業はまだ楽なんです。コンセプトなどをもう指定されて「このようにやってください」と。それをぶつぶつ文句を言いながら、締め切りを過ぎても待たせて(もったいぶって)仕上げてゆくという。。
これは、クリエイティビティを発揮できない「作業」かもしれないけれど、依頼作業はクリエイティビティが枯渇している人材にはやってこない。「今が旬」の人材に仕事が集中する。。(略)
ところで、あまり知られていませんが、サラリーマンは上に行くほど、仕事を選べるようになってきます。
それは、出たくない会議には出ない、とか、面倒な交渉は部下に任せて大事な局面だけ(偉そうに)出てゆく、とか、そういうレベルですが。。
サラリーマンが上を目指すモチベーションはそこにあるのではないかと思っています。役職付きになり泥臭い仕事から解放されるかもしれない、といったあたり。
(再録おわり)
読み返して気になりましたのは、「創造力が枯渇したら、やっつけ仕事になり作品の品質が低下し、売上げ減に直結し」のところですが、
一度ハクがついてしまうと、やっつけ仕事になってもファンが「ついてしまって」売上げ減には直結しないのですね。
ファンというのは、駄作でも許してくれる存在。まァいってみれば複数のパトロンがつく、と。
そうなったら真のクリエイティブといえるのだろうか?
いえ、全否定ではなくて、金銭的に安定した状態になってから本当のクリエイティビティを発揮できるヒトも、いるのでしょう。
でも、いわゆる「アーティスト」気質を是とするヒトたちは、そうではなく、パトロン、つまりイエスマンがついて金銭的に安定してくると堕落する、というのは歴史が証明しているわけです。
なぜならば、そういうヒトたちはそれが達成目標だからです。
それだけではなくて、そのヒトの「エッジのきいた」クリエイティビティが、パトロンのためだけに発揮されるようになってしまう。
これも「才能の枯渇」と同じようなことではないでしょうか。