やってもやっても!
こうありたいまたは反面教師
- やってもやっても!
やってもやっても、仕事が増えるばかり、とか、ゴミは増えるばかり、とか、ゼンゼン片づかない!、とか。。
でもあたりまえですよね、その、やってもやってもやってくる何か(「仕事」)を継続してこなしてゆくのが、その時点でのそのヒトに与えられた使命なのですから。(それが永遠に続くとは限りません)
それに文句をいったところで、意味はない。
文句を言う状態から、それに対して少しでも楽しくやれる方法を考えたり、少しでも効率化して時間短縮を考えたり、という方向へステップアップするのが、「次のステージ」です。
そういう「仕事」は、誰にでもあるのだということを受け入れること。
「オレ(アタシ)ばっかり。。」ではないのです。
確かに、ある瞬間で切り取ってみれば、一人に負荷が集中している状況はありえますが、長いスパンでみれば、ほぼ均等になっているはずです。
今、「オレ(アタシ)ばっかり。。」と考えてしまっているヒトたちは、前世、でなくて、過去数年〜10年前ぐらいに相当サボった時期があったのではないでしょうか。「サボった」とは、自身が積極的にならずに結果的に他人に押し付けた(他人の負荷を上げた)という意です。
自営業だと、その、永遠にやってくるのではないかと思わせるルーティンに対して「感謝」という感情を入れるのは容易なのですね。
「やってもやっても」仕事がやってくる、あー忙しい、という状態は、そのまま売上げ増、利益増につながっていきます。であれば、やってくる仕事たち、あるいは客に対して、「みなさんがきてくれるおかげで生きていける」という感謝の念は、起こるでしょう。
きてくれなければ、仕事にならないでツブれてしまうのですから。
でも、「やってもやっても」赤字が増えるような仕事であればやめたほうがいいのかもしれません。
ビジネスにおいては、カネにならないことを「やってもやっても」やるのは完全にムダですね。
(ただし、そこに将来的な戦略があるのであれば、別です)
個々人のビジネス・シーンであれば、やってもやっても仕事がふってくる! という状況であれば少なくとも赤字が増えることはなく、ふつうに給料は支払われますね。そして、恵まれている方は、青天井で残業代も出るのかもしれません。
ですので、自営とはちょっと考え方が違ってきます。
問題は別なところにあるのかもしれません。たとえば、ビジネス上の関係性、チームにおいて組織の歪みがあるから、一人に負荷が集中してしまっているのかもしれませんし。。
個人個人の、「課」、たとえば部屋の掃除であるとか、そういうものとビジネスにおける「仕事」とは違います。
個人の「課」は、やってもやってもやってくる「課」に対して、対峙する状態から受け入れの状態になり、やがてその課をこなすことが自然になる、というプロセスが大事で、そのプロセスが「成長」なのですね。
(それに対して「仕事」で求められるのは、結果です)
成長というのは無形のものですが、個人ベースではおカネよりも大事なモノかもしれません。
再録
- 遠くにいかないということ(2) (20070710メルマガ)
※20070328の日記(書き出し)に対する加筆
(略)
旅行は見聞を広められる、と助言してくれるヒトもいます。
それは確かにそのとおりだとは思いますが、それに対する反論はムカシ書いたことがあります。
ホントウに、見聞を広めるために旅行しているヒトに対しては、私は違和感は感じないと思います。
ですが、昨今トレンドになっている「旅行手法」では、その場所に行った、人気スポットに行った、有名な店でおいしいものを食べた、証拠として写真とビデオを残した、という事実ばかり残りますが、間違いなく見聞は広まっていないはずです。
自分は別に「旅行嫌い」というわけではありません。ムカシは十人並みに「貧乏旅行」とかやってましたし。。
旅行好きな状態は通過しているのです。
旅行がトレンドであるように、「都心」というのも、トレンドになりつつあります。それは、実際都心に暮らしていると、ここ数年ひしひしと感じます。
ですが、ヒトビトが都心にやってくるのは旅行の延長線上であって、それはトレンドになるかもしれませんが、都心に住む、というのは、その難易度が「若干」高いがゆえになかなかトレンドとまではいかないのです。
それをやっているという自負はあるわけです。
都心に安上がりに住む、ということにかけては達人の域に達しつつあるとまで思ってますから。。
都心に安上がりに住む、の一環として、遠出はしないのです。遠出はおカネがかかるからです。
半分冗談ですが。。
「なぜ遠くに行かないのか」の答えが「おカネがないから」では、ハナシが終わってしまいます。
おカネをどこに落とすべきか、という優先順位を考えたときに、旅行会社や観光スポットではなく自分のテリトリーを選択している、ということです。
歴史は繰り返すといいますか。。
テレビをなくしたら「なぜ?」といわれ、携帯電話を持っていないと「なぜ?」といわれ、旅行にいかないというと「なぜ?」といわれ。。
あたりまえのことをやっている自負はあるのですが、あたりまえのことを実践にうつすと「なぜ?」といわれます。
これらの「なぜ?」の延長で「家はやっぱ買わなくちゃ!」とか「やっぱサラリーマンが安定して。。」などなど、とにかく、私に対して何かしら意見を言ってくるヒトの「擬似オピニオン」の傾向には、トレンドがあって、一貫性はないのです。
「彼ら」は、テレビやマスコミでその時々に話題になっている社会性のある出来事(に対する「コメンテーター」達の意見)を、そのまま何のフィルタも通さずに私に教えてくれているだけです。
そして私は、ある時からそれに気付いてしまったのです。