元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

[新庶民]論 (3)

人生観、のような、思想の話

  • [新庶民]論序章 (3)

ちなみに、この[新庶民]論というのは、一種の知的遊戯ですので誤解なきようお願いします。。(もちろん、半分ホンキです)

[新庶民]への移行というのは、豊かな時代への次のステップだと思うのです。つまり、まずは個人個人が真に豊かになれるかどうか、という。。

庶民が、地域に根ざして、ある意味「閉じた」生活をしていた時代(「昭和ノスタルジー」の時代)は、ホントウに、それしか選択がないわけで(金銭的にも)、庶民は「外に出る」ことを渇望していたのだと思います。

それが顕著に出ているのが、今は衰退してしまった会社の慰安旅行とか。ムカシは「慰安」イコール旅行で、社員もほぼ納得していたわけですよね。そして、「外に出る」というのは近場の温泉ぐらいでもよかったわけですね。

現代社会では、慰安の手段は自分で選ぶからカネくれよ、ということになりましょうか。。
今は時代そのものは豊かになっており、外に出ることは「渇望」ではなくなりました。海外旅行ですらすぐに手が届くものになりました。

カンタンに、物理的空間的に「日常」から脱出できるがために、日本人が地に足がつかなくなってしまったという。。

そして、物理的空間的に脱出が可能になると、なぜか精神的に浮遊してしまう。

それに輪をかけて、ちょっと位相は違いますが、マスコミが煽動する「価値観の多様化」の大合唱も、「地に足がつかない」原因のひとつなのでしょう。


。。という状況から「一巡」して、地域に戻ってきましょうよ、ということです。
その「地域」というのは、選択可能なのです。という意味では私も「脱出」の恩恵を受けてはいますが。。地域といっても自分が生まれた田舎に縛られる必要はまったくないのです。
「地に足をつけたい」という場所を自分で見つければいい。それが、外国であってもいっこうにかまわないのです。本人がホントウに満足なのであれば。

地に足をつけた「新庶民」には次のビジョンがあって、そこでもう死ぬまで「閉じた」生活をしよう、というわけではないのです。つまり、しばらく閉じた生活をしてみて、かつて日本が貧しかった頃のようにまた、外に出ることを「渇望」しましょうよ、ということを、いいたいのです。

誰もが海外にいけるようになった時代、誰もが「世界」を語る時代にあえて、地域というか「日本」を見直しましょうよ、と。そして、自分の「地盤」について十分理解した後に、また外に飛び出しましょう、ということになるのでしょうかね。。


でもそれも、私のキライな「天下国家」を語ってますよね。。
「地域」を知るというときに「日本」を意識する必要はないですね。

地域社会で「日本」を意識するのは、日本に住まいながら「世界」に目を向けるのと同じぐらいなカンチガイなような気がします。

再録

昨日の抜粋の繰り返しになりますが。。

「岸田 ところが、ノミは血を吸って、馬は草を食うというのは、もう本能的にきまってるのですけれど、人間は本能が壊れてしまっていて、何でもできる。本能というのは形であって、その形が壊れてしまったわけですから。しかし、この世の中に生きていかなきゃいけないので、何らかの形を持たなきゃいけない。ノミが血を吸うという形は本能的なものであって、その形以外にはあり得ないわけで、そういう意味でも根拠があるのですが、人間の場合は、いかなる形をとろうと根拠がないんですね。」

結論から言うと、何をひらめいたのかというと、自分も「何らかの形を持たなきゃいけない」と、最近切実に考えており、その結果として、「形」を「日常」に求めようとしているんだろうなあ、ということ。
(略)
「何らかの形を持たなきゃいけない」というのは、自分の心に耳をすませば、人間の自然な欲求のはずなのです。

「形を持たなくともよい」というのはその欲求に逆行しているのであって、それを続けていたら生活が苦しくなる(「不満ばかり募ってくる」という意であり、おカネに困るという意味ではない)のは自明なのです。

私は「形を持たなくともよい」というのを「非日常を追い求める」ことだと考えています。「日常」をカタめないこと。「日課」「週課」「月課」をあえてもたないこと。(「課」を持つことにより「自由じゃなくなる」という脅迫観念を持っている)

そんな観念を持ち続けていたら、自覚的にいつまでも「形」を持てないので、そのことに対してストレスがたまります。(ストレスがたまる、イコール不満が募る、でもよいです)

私は全く逆で、最近は、自分の生活のほとんどが「課」で埋まっていればそれは幸せな人生なのではないか、と考えていました。なぜ幸せなのか、といえば、この本を引用すれば「形を持つ」ことにより楽になるということですね。

ただしその「課」は与えられたものではなくて自分で選択した、納得のモノでなければならない。


。。もしかしたら、「形を持たない」ことが自分の形だと思っているとか??

それは何か矛盾しているような。。

根源的な欲求としては、形を持ちたい。でも、表層的な欲求では日常をカタにはめず、形を持ちたくない。

この表層的な欲求というのが、マスコミの影響、それと、アメリカ偏重の間違った戦後民主主義に洗脳された結果なのでしょう。

マスコミの影響を断ち切り、「メディアリテラシー」を持つことにより、やっと自分の根源的な欲求が見えてくる、ということ。


この本で書かれていますが、欧米はぱっと見「自由」で形を持っていないように見えるかもしれませんが、彼らには「神」がいるのです。

そして日本にはどういうわけか、神はいない。
(再録おわり)

ここでいってる「神」とは一神教における神のことです。
日本人は八百万の神を相手にしなければならないから、コトはそれほど単純ではないのですね。

純化してしまえば、欧米では、自分も隣近所も同じ一神教の神を信仰している、という「カタ」がある。