元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

宗教とダイエット ミチクサを控える? カネゲット

本来の日記部分

  • 仕事

昨日の、ものすごく腹立たしい面談から1日経過したのですが、なぜかその後、自分の中の思考回路にスイッチが入ったのか、いろいろなことが書き出されていくうちにまとまってゆくような感覚を得ました。

怒りがスイッチになる、というのがフシギですね。以前はそのようなことはなかったと記憶しています。

まァつまり今日は、自分の考えをめぐらせて、それをテキストに書き出すことばかりやっていて、仕事が手につかなかったということです。。
仕事のほうは怒りが続いていて未だにやる気が出ず。。
なんでこれほど引きずるのかすらわからず、といったところ。 

念願かなって(?)タモリ倶楽部に出演。
どこかの路麺店でのロケ。自分はかきあげそば? を注文してわかめ? をトッピング。
まったり進行していたのだが、急遽、電車に乗ることに。鉄道特集ではない回だったのだが。。

番組の進行が気になったが、ローカル線? みたいな線を乗り継いだりしてタモリ氏とずーっと電車に乗っている。川崎? あたりを通ったように思う。

そばやに戻ってみるとロケは終了していた。番組はどうなったんだろう? と思ったのだが、タモリ氏本人も電車に乗っていたのでどうしようもない。

鉄道に乗っている間はカメラは回っていなかった。



人生観、のような、思想の話

  • 時期のハナシ

人生には、ヒトが集まってくる時期と離れる時期があるように思います。

で、離れる時期はそれをよい機会として自分を磨いておけば、次のバイオリズムのヒトが集まる時期には、「磨かれた」自分に相応しい人間が集まってくるのでしょう。

と、いう意味では、人生は自分でいかようにも変えられるということです。(もちろん、悪い方向にも)

人生において「出会い」は重要な意味を占めているわけですから。

死、あるいは宗教に近い話

  • また宗教とダイエットのハナシ

「次のステージ」への移行という意味での、貧乏な時代をとうのムカシに脱出した日本人の宗教の「利用」というのは、理想論でおわってしまうのか。。 という件のつづきですが。

人間は、たとえ貧乏でなくなっても、(この場合の「貧乏」とは衣食住にすら不自由する、という意味です)何かしら「貧乏」にかわる生活の不満を見つけてきてしまい、それをベースに宗教(あるいはそれに類するもの)に「すがって」しまう性質なのか、ということです。

それを否定したい。。のですが、おそらくそうなのでしょう、と言わざるをえないですね。

何度も書いていますが、その典型的な例が「ダイエット」です。
標準体重の範囲内なのに「自分は太っている!」となぜかネガティブ要素を自他に喧伝し、ダイエットに「すがり隊」。

こういうタイプの人種は今はやりの「レコーディング・ダイエット」はできないでしょう。なぜなら、地道な「継続」が必要だからです。

新興シューキョウの類が、常識界を超えた「なにものか」に光明を見出すように、ダイエットというものも、まるで魔法のように、一発で効かないとなりません。
そうでないと宗教性を帯びない。つまり、爆発的に信者を増やせないのですね。

そして人間は、地道な努力をすれば実は誰もがダイエットできるということを知っている。
アタリマエなのです。摂取カロリーを減らして、それ以上のカロリーを運動によって消費し、かつそれを連続的に続ければいいわけですから。

でもそれをヒトは「ダイエット」とは呼ばないのです。「日常」だから。


ホントウにヤバいぐらいに太ってしまって、医者から減量をを厳命されているような場合は、それはダイエットどころのハナシではなくて「治療」ですね。現代病です。

今書いて気付きましたが。。「ダイエット」と「減量」って違いますよね。。ダイエットは、外見的にキレイになる、という意味を含んでいる。ただ単に体重が減少するだけじゃダメ、みたいな。。


この「ダイエット教」の信者とたとえば「スピリチュアル」の類に興味を示す層は、おそらく高い確率で重複があり、そういうヒトたちが「すがり隊」の底辺層を構成しているようです。

血液型占い、星座占いに強い興味を示す層はその予備軍です。テレビ依存者も結局同じですね。

これら「すがり隊」およびその予備軍のヒトたちは、たまたま帰依の対象が「宗教」っぽくないだけであり、「宗教」にリアルにハマると世間体の問題があるので(特に、オウム以降)そういう、宗教然していないものに活路を見出そうとしているだけです。

宗教がソフトに弾圧されてしまったので、帰依の対象を替えて地下に潜っただけであり、何かしらの「すがる」対象が必要であることにはかわりはない。

昨今、宗教に寄り付く人間が減ったからといってイコール自立した人間が増えたわけでもない。むしろ減っているのでしょう。

こうありたいまたは反面教師

才能のある人間がとりあえず「カネゲット」に走って何が悪いのか、誰がそれをとめられるのか、ということです。この高度資本主義社会で。

そして、そういうヒトたちは、無限にカネを求めるのではなく、老後まで自分が望む生活ができるぐらいの資金がたまったらもうリタイヤするつもりでいるのです。
ですので「とりあえず」なのですね。理性があるので「カネの亡者」にはならないわけです。

ですので、ますます間違ってはいない。高度資本主義社会の申し子でありましょう。

もっとも働き盛りの時期に、ある程度エゴを優先させてカネゲットに走る。仕事は、内容よりは報酬優先。
それのどこが間違っているのか? 

そういうヒトは、逆に理性があって、働き盛りを過ぎてある程度のおカネをゲットできたら、いわゆる「ボランティア」的なことに向かってくれると思います。


昨今、無償あるいは超低報酬で、「デキるヒトたち」に、いろいろなことを求めすぎです。
「カネじゃない」で始まること自体がおかしい。

何かしてほしかったら、最低限の生活を営める、というレベルの相当上の報酬を用意すべきなのです。資本主義社会なのですから。

「デキるヒトたち」のモチベーションは「評価」なのですよ。その評価を量るもっともシンプルで確実な尺度が「カネ」なのです。コトバじゃないのです。

なぜこれほどまでに、「デキるヒトたち」に「自発的良心」を求めるようになってしまったのか。。
ということを憂いています。