元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「毎日同じ」ではないでしょう 9−17の生活 経済の循環

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 公務員

「9−17」の生活を実現できているというのは、すばらしいことです。
という意味では、「早く帰りやがって」という公務員批判は、的外れです。それではただの羨望にすぎないですし、逆に自身の時間管理のルーズさを露呈しかねません。

会社に抗ってでも自身の自由にやりたいことをできる時間を確保するのが、真の意味での、人生の時間管理です。
仕事が忙しいから、というのは言い訳になってしまいますし、後悔します。

残念ながら現代は、ひとムカシ前と違って、仕事に没頭するのであればそれと平行して自身の時間も確保しなければ後悔の念が発生してしまうメカニズムになっているのです。

その仕事が天職であればよいではないか、という意見もありましょうが、仕事が忙しくで自分のやりたいことができない、有休とれない、旅行にいけない、など考えている時点で天職ではない証左になっています。


公務員側も「アイツら9−17で仕事しやがって」という的外れな中傷に対しては反論していいと思います。「だからなに?」と。

仕事の内容で誇ってほしい。
そんなことよりも納税者は、血税が無用な残業代に使われるほうが腹立たしいと思わなければなりません。

仮に、公務員の方々全体での仕事の生産性が低いのだとしても、結果的に世の中の役に立っていればそれでいいのですが。。

頻繁に不祥事が表面化しますからねえ。。
公務員ばかり不祥事があるように思わせているのは誰かのリークが奏功しているのか、それともホントウに公務員のほうが不祥事を起こしやすい体質なのか。。

民間企業も五分五分だと思いますけども。あの、賞味期限の偽装云々の報道をみますと。。
あの賞味期限云々のリークは公務員バッシングを受けた社保庁の怨念のなせる業でしょうか。。

  • 経済の循環

皆が節約(つまり、支出をケチる)してしまったら経済が循環せず日本が傾いてしまう、というハナシを聞きました。

一見、もっともらしい意見ですが。。それで傾いてしまうぐらいだったら成長国家を志向しなければよいと思います。

このクニにはムカシに戻りたいという思いを持ったヒトがたくさんいるわけです。であればお望みどおり、その「旧き良き時代」の経済までロールバックすれば、時代も逆行するかもしれない。(実際は逆行しない可能性が高いですが。。)

人間の行動様式がどうなろうと(財布のヒモがゆるくなろうがキツくなろうが)、社会経済はそれにあわせて柔軟に変わってゆくはずです。


そもそも、「もっとカネを使わないと経済が循環しないから」とけしかけるほうがアヤしいですよね。そんなに庶民にカネを使わせてどうしようというのでしょう。その陰で嗤っているのは誰でしょうか?

どうも陰謀っぽいですが。。
まァ、日本経済のことまでも考えてぱーっとカネを使おう、と考える庶民はいないでしょうが。。

企業自体が一消費者として、いろいろ大口の購入をすればよいのです。


カネがないときも消費してしまう自由が今の日本にあるように、カネがあるときに消費しない自由もあるはずです。


そして、ハナシがちょっとそれますが、企業というのは「超」薄利多売でいいのです。企業というのはカンタンに「赤字覚悟で〜」とか「売れば売るほど赤字になる」という常套句を使いますが、あれは結局はプロパガンダ、つまり大嘘です。なぜならば、どこかで必ず帳尻をあわせているからです。

庶民が一消費者としてふるまう場合は、そういう常套句にひっかからないようにしなければなりません。

また、一消費者に対して、採算が云々、利益が云々と泣き落としをかけてくる会社(営業)というのはゼッタイに信用なりません。(それは単にその営業個人のノルマのハナシ)


私は、はっきりいってしまえばその会社がツブれてしまってもなんら問題はないのです。私がツブれなければ。
アナタおよびアナタの会社の行く末よりも、自身がどうなるか、のほうが切実な問題です。


たとえば、日用品ひとつを買うにしても、現在、たくさんの選択肢があるわけですから、どのチャネルを選択するかというのは、自分がその店におカネを落としてもよいか? 落とすに値する店か? を考えればよいと思います。

たとえば、「近所にある」というのはそれだけで重要なファクターなのです。その、たまたま近所にあった店のおかげで我が家の家計は助かっているかもしれず、近所にあるがゆえに自分の人生の時間が効率化できているかもしれず、とにかく、「近くにあってくれて助かっている」という意味でカネを落とすに値しているわけです。

こうありたいまたは反面教師

  • 「毎日同じ」ではないでしょう

同じような毎日でつまらない、という勢力に対して「同じような毎日をつまらないと思わないように工夫すればよいのでは?」とこちらはアドバイスするわけですが「なんかそれむなしくない?」とくる。。

ここではどちら寄りですか? 「むなしくない?」という意見に共感するか、つまらないと思わないような工夫をするほうに共感するか。。

私は前者とはまったく話があわないですが。。 すごく「受け身感」を感じるわけです。何かものすごく楽しいビッグ・イベントがアチラからやってこないのはなぜ? と文句を言いながら、自分はふんぞり返ってまったく動かないようなイメージ。


ところで、「むなしくない?」に対しては「じゃあ『日常』とやらを変えてみては?」とこちらは言うわけですが、今度は「どうやって?」と返してくる。。

ここではどうでしょうか?「どうやって?」と言うほうに共感するか、「どうやって?」と聞く人間に腹が立つか。

私はここでも前者とはまったく話があわない。


「どうやって?」勢力に対して、その手法、手段はこの日記で断片的に示しているつもりですが、それも「抽象的でわかんない」などといわれてしまうのでしょう。

ところが、そういうヒトたちはえてして権威主義なので、著名人が「スピリチュアルな」場で私が言いたいことと同じような内容を指南すればコロっといってしまうわけです。

ですから、「庶民の総体」はマスコミに小馬鹿にされてしまうのです。
ヒントはブラウン管の向うではなく、自分の周りに転がっているのに。。