元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

フリーター、ニートのハナシをシツコく

みうらじゅん氏の「仏像オタク」としての仏教へのアプローチというのは、良いですね。

カラっとしています。「仏像ロック」とか。。

それにしても「サブカルチャーとしての毛坊主」というのも、アリなのですね。

抜粋・紹介

  • 例のフリーター、ニートのハナシ

何度も紹介していますが、CMB内田博史さんの日記を読んでいて、僭越ながら「同時代性」を感じるなあ、と思うところは。。

言い訳を準備しながらの行動、およびそういうことをする人間を毛嫌いしているということ。
どこまでも自己責任から逃れて、誰かのせいにできることしかしない、と。
(そして、そういう人種は現在の日本では「大」多数派です)


この内田さんという方もフリーター、ニートの類に対しては「自分ではいあがってこい」派なのでしょう。

そういった立場での安住を希望するヒトも一定数存在しますので、それでいいのであればいいのです。本人がホントウに納得しているのであれば。
そして、家計の収入は複数で分担すればいいと思うのです。必ずしも家から独立する必要はないと思います。

ですが、そういう立場での安住を望んでいないヒトは多いようです。さらに「世の中が悪いから。。」と言わんばかりの。。

「スタート地点まではおんぶして連れてってね」といった感じでしょうか。
いわれたとおりにしたら、おんぶしたままスタートしてくれ、と言われたりして。。
そこまで言い出しかねない、というイメージがありますね。

そういうヒトたちは、この後におよんで「キレイな」生き方をしようと思っているような気がします。そして、ずっと何かを期待して受身で待っているようなイメージ。そして、待っている間は文句ばかりで。。

「一度きりの人生」なのだから、失敗覚悟でもう少し泥臭い方向を選んでもいいのでは、ということです。

それと、ただ待っているぐらいだったらまずは、家の掃除をするとか。。(マジメにいってます)そういうヒトたちはおそらく実家にいるのでしょうから、まず身近なところから、スネをかじりまくっている両親の労を少しでも軽減するようなことをしてみればいいのではないでしょうか。
そこから何かが開けるような気がします。

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • つづき

実際に、ニート、フリーターの類(われわれの時代には「プータロー」と呼ばれていた人種ですね)から抜け出すことができる可能性は、ホントウに低いのでしょうね。
どの時点で「抜け出した」といえるのか、という問題もありますが。。

定職についたとしても、収入が少ないと「ワーキングプアー」なんて新しい差別的横文字で呼ばれてしまったりして。。(具体的には、年収400万ぐらいに達すれば成功なのでしょうか?)

全員が全員、抜け出せるわけではないとしたら、その、分岐となる条件はいったい何なのか?

それは、運とか実力とかそういうありきたりな、わかりやすいモノでは断じてありません。
何が分けるか、といえばそれは「努力」の「質」およびその「継続」です。

運という概念も否定はしませんが、それを前面に押し出してしまうと、まるで何かに導かれているような、導かれている人間だけが抜け出せるような、錯覚を起こしてしまいます。

そうではなくて、主体的に、質の高い努力を続けた人間にのみ、運というものは味方するのでしょうし、なぜ味方するかといえば、努力を続けることにより実力がつくからでしょう。

継続をできず、単発の努力で、一発で泥沼から抜け出そう、としている時点で、まずアウト。ずっとそこにいてください、みたいな。。


「努力すれば夢はかなう」というのは非常にアヤしい考え方ではあるのですが、努力すれば、今の横文字差別用語である「フリーター」「ニート」「ワーキングプアー」を脱することぐらいはできる、というのは間違いありません。

ただしその努力の「質」は常に考えなければなりません。
質の高い努力をすることにより、「ふつうの生活」まで駆け上がることができるのは、アタリマエなのです。
世の中そんなに捨てたものではありません。

そして、質の高い努力を継続するためには、一度、間違って形成された「自我」は捨て去らなければならないでしょうね。


働いても働いても貧乏になっていくというのは「構造」の問題である、というハナシも聞きますが、その「構造」というのは強固なのかもしれないけれど、抜け道はありますよ。「自我」さえ一度捨ててしまえば。

働いて働いて、貧乏になってゆくヒトもいるしカネ持ちになるヒトもいます。もちろん働いても働いても「ふつうのまま」のヒトもいます。
と、いうことは、眼前の可能性としてはどこに向かう可能性もあるわけですよね。働けば、という前提ですが。「働けば」というのは「働き続ければ」と言い換えるべきで、多分に「継続」の要素を含みます。


格差社会というのは、考えを変えれば、働いて働いて「ふつうのまま」を目指せるようになった、ということですよね? がつがつとカネ持ちを目指さなくともよくなった、という考え方もできるのです。

ふつうに暮らす、ということがいかに難しいことか、というのをたくさんのヒトに身体で知ってほしい、という気持ちは、ありますね。
一度そこから落ちてしまったヒト(最初から底辺にいるヒトはほとんどいません)には、わかってもらえるのでしょう。

  • 「働かざる者食うべからず」ではなかったのか

私は、「納税額により基本インフラ・サービスに差をつけるべし」派です。

対象は、税金で賄われている公共財は当然のこと。。
税金を多く払っている人ほど『自然に』質のよいサービスを受けられ、快適に過ごせる世の中が理想ですね。そういう基本理念で世の中が再構築されてゆくことを望みます。

たとえば、納税額が多いヒトはラーメン店の行列を回避できるとか、グリーン車に優先で乗れるとか、とにかく、サービスの明確な差別化です。

その場でカネを払って上級のサービスを受ける、というわかりやすい形態ではなくてもっと自然に。
たとえば高いカネを払ってスポーツ観戦で特等席を予約する、という同じ感覚で、高い税金を払って高い公共サービス(快適な「世の中」そのもの)をゲットする、と。

それで何か問題なのでしょうか? 給料が安くとも税金はたくさん納めます、という選択もアリでしょう。

適用されるのは本人と扶養家族、そして、その本人が認めた親類。(年老いた親とか兄弟とか)

RF-ID社会が到来したらそれは実現できるはず。
そして、「一家の大黒柱」としての父親の威厳も回復できるでしょう。。

そういう社会が実現されるのであれば、消費税を3%に戻して累進課税をさらに進めればいいと思います。各日本人から平等に消費税をぶんどる必要はありません。その代わり、3%の消費税しか払えないヒトはそれなりのインフラしか利用できない。

ただし。。
税金が払えないヒトたちは死ねといっているのではありません。
カネ持ちが納めた税金で、公共財の基本サービスも、今よりももっともっと質を上げる必要があるのです。質を上げるためにはもっともっとヒトを雇って、人海戦術でサービスの維持・運用の質を上げる。

最低レベルを底上げして、さらに、その最低レベルを上げるのに納税というかたちで貢献しているヒトたちにはさらに上質のサービスを提供すべきだ、ということ。

そして、世の中が多額納税者によって維持されているのだ、ということを教育によって認識させることができれば、ある程度の社会的尊敬を集めることもできるでしょう。


もちろん、「転落」も経験するでしょうね。無職になった翌年とか、納税額がガタ落ちして、世の中の冷たさを痛感するのかもしれません。

そういう場合は、「ストック」制度を導入しておけばよいでしょぅ。
でも、その冷たさを痛感するからこそ、また這い上がろうという気持ちも起きるのではないですか。

また、世の中に貢献している仕事をしているにも関わらず給料が低く、納税額が少ない、という問題もあります。そういう場合は、納税額以外のパラメータも「ポイント制」として導入すればよい。(さきほどの「人海戦術」のハナシはここにつながります)
いわゆる3Kとか、福祉の最前線とか看護婦とか、そういう仕事を適用すればよいでしょう。

まァ詳細の設計は誰かに任せますが。。
とにかく、私は、世の中があまりに平等になりすぎている、と感じています。

フリーターだ、ニートだ、と叩かれ、格差社会だ、といわれているのは、私と同じような思いを持つヒトたちがひとつの「勢力」になってきて、間違った平等主義社会を崩壊にかかっているということでしょうね。


はるかムカシからこの国には「働かざるもの食うべからず」ということわざがありました。