元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

トイレ モノがあふれること 

本来の日記部分

飛行機に乗れない、という。。ホントフシギな夢でした。
まず、家族で飛行機の搭乗口へ向かうのですが、出発ギリギリだったので、家族を置いてゆく。といってもチケットは自分だけ。家族は、見送りだったんですね。空港について最初は搭乗口まで歩いていたのですが、歩いていると間に合わないし、足手まといなので「じゃあもう行くわ」と自分だけ走り出す。
たぶん、そこまでの間にすごくイヤなことがあったはず。そもそも、出発ギリギリになってしまっている、ということは、家族がもたもたしていたから遅れていたにちがいない。

で、無事飛行機には乗れたのですが、バッグを持っていないことに気付く。荷物が全くない状態で自分は旅行できるだろうか? すべて借りればいいかな、などいろいろ葛藤する。
自分のバッグはおそらく、家族が持っている。家族は、遅れて見送り口にやってくるかと思いきや、全く現われない。もう引き返してしまったのか。

そして、自分は余計な封筒(手紙?)をいくつか、手に持っていて、これがとてもジャマ。なんで自分がこんな封筒を握り締めているのか、よくわからない。乗務員のヒトに、これを郵送してもらえないか、と相談。自分の住所を紙に書いて渡す。

飛行機はやがて出発したのだが、どう考えても様子がおかしい。滑走路ではなくて一般道を走っている。離陸のためにスピードを上げるが、一般道なので上がらない。やがて、視界にヒトがあらわれ、飛行機はブレーキをかけるのだがまったく間に合わず、飛行機はガンガンヒトを轢いていく。タイヤが人間に乗り上げるときの感触がすごくイヤな感じ。
ブレーキをかけるにはかけているのだが、本気の急ブレーキではない。ヒトを避けようとするのであれば、もっと急ブレーキをかける必要があるのだが、それをしない。
そして、乗客、乗務員はヒトを轢いていることに対して特に驚きもしていない。自分は、これは後で大問題になる、とは思った。

次のシーンでは、飛行機は、自分たちが空港に入った入り口で止っていて、乗務員から、アナタのチケットは日付が間違っていましたので降りてください、といわれる。自分は「ゼッタイおりなければならないのか?」と聞くが「ゼッタイだ」という。
何人か降ろされる対象の人間が降り、自分は、ホントウの日付が数日後なので、またくれば乗れる、と言われたが、ホントウの日付が過去の客は、もう二度と乗れない、という宣告をされる。
それに対して、口論になるとかもなく、ヒトビトはすごすごと降りてくる。

自分はもう、飛行機に乗るまでのわずらわしさがホント、イヤだったので、「もう乗らないから返金してもらえるか?」と聞いたところ「たぶん大丈夫なのでカウンターで聞いてください」といわれる。

ところが、実は、自分はバッグを忘れていたので、降りることになってよかったなあ、という感じもあった。

降りて家族にTEL。最初、自分から電話がかかってくることを全く想定していなかったのか、他人とカンチガイしてトンチンカンな話をされる。途中で自分からの電話であることに気付いて、「どうしたの?」といわれた。

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • やっぱトイレですよ

たとえば市民運動でもデモでも、「座り込み」でもなんでもいいのですが、現代人は、トイレを確保できないのであればそのような「運動」は耐えられないと思いますよ。

だから、そういう運動が減ってきたのではないでしょうか。
下水関係を犠牲にしても運動に殉じますか? といえば100%Noでしょう。
「運動」に突き動かす原動力、といいますか、何かの権利を獲得するためであれば、外で用便することも厭わないか? 

たとえば、まァ古いたとえになりますが、全共闘で全学ロックアウトしたとしてもトイレは詰まってきますよね。ですからなんだかんだ言い訳をつけて下水の業者はいれる。その「なんだかんだ言い訳」が、みっともないんですよ。下水業者はゼッタイに権力側であるはずなのに、警察や機動隊には反抗するくせに、下水業者には諸手をあげて屈服です。
さらに、選民意識があるから、トイレ掃除も「やらせる」意識でいる。屈服しているにも関わらず。

全学連で国会に突入したところで、デモがこう着状態になったらどこにもトイレはありませんよ? どうしますか?(特に、女性)
「思想」をなげうって公衆トイレにかけこむしかないでしょう? もちろん、大混雑しているでしょうけど。。

オムツしてまでデモしますか? そこまで賭ける「思い」があるのでしょうか?

衣食住どころのハナシではないのですよ、「排出」の問題は。


ですから、逆に考えたらトイレをとめられたらおしまいですよ、現代社会で。
まァコンビニはありますけど。。 「トイレを使える」という意味での「コンビニエンス」か。。


トイレを確保しておくことです。そして、皆で率先してキレイにしないと。入りやすいトイレにしておくことです。それも「豊かな生活」のひとつ。

新興の会社の社長が、トイレ掃除好きが多いというハナシはよく聞きます。自ら、やる。それって、すごく、わかるような気がするのです。トイレを大事にするヒトが出世する、というのが。。
トイレがどれだけ大事か、ということを身体で知っているヒトは、強いはずなのです。


こうありたいまたは反面教師

  • モノがあふれること

モノがあふれるから、その場から逃避したくなるんじゃないかと思いますね。これは、間違いないでしょう。
それと、モノがある、ということに対する感謝の欠如。これが、現代人の通奏低音としての不満足感に「一役かっている」のでしょう。

はっきり申し上げて、バカじゃなかろうか、と思うこともありますけどね、物欲のままにモノを買い続けて、部屋のキャパのことも考えず、そして部屋や家がモノであふれてくると、こんな狭いところにはいたくない、温泉にでもいきたい、海外旅行にでもいきたい、と。。
民度」というコトバがアタマをよぎります。。
完全に、自業自得でしょうね。

物欲にまかせてモノを買うにしても、その結果として、モノを収めるための収納をそろえるにしても、逃避のために旅行に行くにしても、すべて、カネが必要です。まんまと資本主義社会にハメられているのです。


だから物欲から断ち切らないと。。 真に豊かな生活はゼッタイできませんよ。(それを、望むのであれば)
現代人が豊かな生活を実感できるのは、キレイな部屋、がらんとした家、です。モノがあふれて雑多な状態ではないのです。それは前時代的な、モノさえそろえば豊かであるという価値観にしばられたままです。

だれか、名前は忘れましたが有名な横文字職業のヒトも、オフィスは極端なぐらい何もおかないことによりアイディアが沸いてくるものである、といっています。
権威主義のヒトたちは、著名人がそう言ってるのですから飛びついてマネしてほしい。私がいくら声高に主張したところで意味はないのですから。。

たとえモノであふれているのだとしても、収納をしっかりして、ぱっと見は自分が住む家、部屋をキレイにしておくことは大事なのです。


ところで。。最低の必需品以外の、趣味の品に囲まれた生活が幸せ、という「刷り込み」「洗脳」は、「誰」が主導で行っているのだろう? 誰か、戦後社会を動かしている(いた)黒幕がいたはず。。

欲求のままに生きて成功できるヒトは0.01%もいないのに。。愚民たちが自分もその資格があると思い込んでいる。そのように甘いコトバで思い込ませているのは、いったい誰なのだろうか?