元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

自分に厳しく、他人は無視

本来の日記部分

自分がもうすぐ死ぬのを前提に、話が進んでいた。たとえば葬式の準備とか。
親戚は皆、やさしかった。そして、すごく悲しい顔をしており、ことあるごとに声を詰まらせ、泣きそうになっていた。

それを客観的にみながら生活してゆく、というのはなかなかキツいものがある。

人生観、のような、思想の話

  • 自分に厳しく、他人は無視。(20071017)

最近ぽっと思いついたこのmy格言に、自画自賛しています。自分はまさに「これ」です。
他人に余計なコミットするよりも無視するほうがよいにきまっています。「無視する」とはコールに対してレスポンスしない、ということをいっているのではなく、「静観する」あるいは「距離を保つ」といった感じですね。

「世話焼きおばさん」スタイルは、時代にそぐわないのです。

他人に、おせっかいな優しさをかけてあげる必要はないのですが。他人が困っているときにはすぐに参上してあげたいなあ、とは思います。このふたつの考え方に矛盾はありません。

基本的にヒトは「自力」で生きるべきであって、周辺の人間は静観していればそれでよいのです。


抜粋・紹介

日本人とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

日本人とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

日高(六郎):(略)田舎のほうで先祖代々、村でみそ、しょうゆ、酢などをつくっている人の話を聞いた。彼がいちばん心配しているのは、その村にスーパーが進出してくることだという。もしそうなったら、村民がテレビで広告している大手メーカーの商品を買うようになる。そして何百年かつづいた醸造業が一つ村から消えてゆくことになる。こうした点で、革新自治体はまったく無力ですね。(略)現実に地場産業の育成といったって、大メーカーに全部押されてしまう。たとえば、昔はみそ、しょうゆはみな町や村や、場合によっては個人の家でつくっていた。それは、ある意味では、安心して食べられ、巧みに味をつくり出すことのできる食料品だった。いまは、みんな防腐剤を食べさせられている。なぜ日本人の六十パーセントがキッコーマンを買わなければならないのか。


高畠(通敏):(略)たとえば、全共闘の学生が生きがいを情念化したときに狂ってきたとよくいわれるが、問題は他のかたちの生きがいがあるということです、生活に根ざした生きがい、平凡だがはりのある暮らしのなかの生の充実感というものがあって、それは、たやすく情念化される種類のものではない。フロンティアの生活から生まれるこういう生きがいにくらべれば、サムライは自分の生活をもっていないわけです。あれは忠誠や武士道という観念で生きているわけで、自分の畑を耕し、牛を追っているフロンティアーズ・マンが日常現実的に直面する問題と違う次元で生きている。(略)三島の生命力が衰えてきて、それを補償するために観念的な不死というものにすがったということですけれども、しかしそういう創作力の枯渇イコール生命力の枯渇と感じること自身、限られたインテリ層の問題であって、民衆は別に毎日毎日創作していないといって生命力が枯渇したと思わない。別なかたちの生の充実感というものがやはりあるわけです。それを組織化し表現するという作業こそが知識人が担うべき種類の問題だと思いますね。地域で問題をかかえて苦闘している婦人たちが、実際に毎日生き生きしてくる。その生きがいは全共闘の学生が感じている生きがいと違うんですよ。
(略)
日高:三島の場合は、いわゆる文武両道であって、せいぜい文士と武士でしょう。だから士農工商といったときの農工商が脱落している。
(略)
鶴見:文士は、同じことばをくりかえし使うと、そのことばを最初に創出したときと違って、自分で書いてもシラケルし、読者もシラケてしまう。その意味で、大学生たちがシラケるというのと、よく似ている。三島の読者は、大学生が多いし、その部分を動かしたということでしょう。この世の中は、文士だけが暮らしているわけではない。(略)たとえば岡本太郎のような芸術家は、三十年前に言っていたことと同じことを言っても、本人は喜んでいられる。同じリズムになっている。都はるみが歌っているのも、同じリズムでしょう。それはシラケやすい全共闘の学生たちとは違う生命のリズムになっている。(略)酒屋の主人と奥さんの場合でも、毎日が同じ生活のリズムでありながら、少しもシラケていない。自分の店の酒を売ることに一生懸命で、時間がないわけだ。子どもが三人いるけれども、テレビが子守りをしてくれるので助かるといっている。その子どもが育ち、将来、少し手が抜けるようになれば、ヒマができるというので、楽しみにして、心おどるものがあるらしい。そういう境涯は、三島および大学生には、おそらく考えられないことではないだろうか。
加藤(周一):同感ですが、それは三島だけの問題ではなくて、日本社会における小説家のかなり多くの部分にもあてはまる。
高畠:しかし水上勉司馬遼太郎の作品を読む層は明らかに違いますね。
(略)
日高:三島が、自分の肉体がひじょうに貧弱であるということで劣等感を感じたときに、なぜ百姓をしなかったか。
加藤:そう、そう。
日高:なぜ鉄アレイをやったかという、そういうことだと思う。
加藤:それは彼の美的エロティックなからだなんでしょう。肉体というのは美的なものでエロティックなものであって、労働する肉体じゃないと考えている。
(紹介おわり)
「民衆は別に毎日毎日創作していないといって生命力が枯渇したと思わない。」


スーパーマーケットという「箱庭」で、無農薬だ、無添加だと騒いで食品を選んだところで、カップラーメンをやめて「生ラーメン」を選択したところで、何ら意味はないのです。
スーパーマーケットに行っている、という時点で。

再録

  • 行ってなかったところにいける(20070625メルマガ、20070211原典)

海外旅行などにカンタンにいけるようになったことの弊害というのは、カンタンであるがために計画性がなくなりつつある、というか。。
そのへんの駅前の旅行会社にふらっといって、空いてたらパック予約して、お金はキャッシングやカードで準備して、身支度はカンタンにすませて。。と、すぐ行けてしまう。

という現実があるということは「旅行なんてすぐにいけるもの」ということになり、「旅行に対して綿密な計画を立てていくのはカッコ悪い」という風潮に変化してゆきます。

その計画を立ててゆくなかで、貯金していたものです、以前は。
それと、計画を立てている段階がいちばん楽しい、というのはよくいわれることです。


という話が本題ではなかったのですが、最近、行こうと思ってなかなか足を運べなかったところ(近場)にさくっと行けて、小さな幸福感を感じているのです。

自分のB・C級グルメ道も似たような感じです。
行きたいところ(宿題店)が常にいくつかあり、時間に都合をつけて、わざわざ電車を乗り継いでいくという過程や、「行けるということ」そのものに対して幸福感があります。
それで、食べたものがおいしかったらベストですがそうでないこともあり。。 でもそれはもっとも重要な要素ではありません。

まず「行きたい」という欲求が満たされるということ。
食べ歩きであれば、健康であるからこそできるということ(健康への感謝)、ある程度小遣いがあるからこそできるということ(働けるということへの感謝)、などなどが幸福感を形成する要素です。

自分の「活動」についていえば、まず、都心に住んでいなければ都心のスポットにはさくっと行けないわけです。
ですので、住んでいる場所への感謝というのもあります。それが地元意識にもつながってきます。

それと、都心に住むという決断をし、実行した過去の自分に対する感謝です。
これが自分の精神的安定の基礎になっています。
「自分の行動は(いろいろいわれたりしたけど)やっぱり間違っていなかった」という確信。

こうやって感謝、感謝をしてゆけば、「産んでくれた両親に感謝」までたどりつけるのでしょう。

でも「この自分を産み、育んでくれたmother earthに感謝」とまでなったらやりすぎのような気がします。
日本という国に感謝、までならいいかな、と。

自助努力を続ける覚悟がある人間にとって日本、東京、都心というのは非常に暮らしやすい場所になってゆくでしょう。


また脱線。。
ホントにいいたかったことは、行動可能な範囲で幸福感を得られるように自己設定ができていないヒトたちはカワイソウだな、ということです。皮肉もこめて。。

自分の身の丈(可処分所得?)をわきまえずに、洒落たイタリアン、フレンチでディナーしなければ幸福感を味わえない、あるいは、海外でブランドものを漁らないと幸福感を味わえない、とか。。

具体的には、数百円、数千円の出費と自分の「足」で稼げる行動範囲で幸福感を得られるようにしておけばそれで十分ではないか、と思うのですが、マスコミに煽られ続けているとそうもいかないのでしょう。

旅行もそうですが、マスコミに煽られて出費を「させられている」ということに気付かなければ。。

マスコミの巧妙な広告により、庶民のサイフからお金を巻き上げることで、この国の経済は循環しています。

広告の妙は、その出費を苦痛と思わせないところにあります。
瞬間的に幸福感をもたらすこともありますが、それは長続きしません。

そして、ヒトビトは、お金を浪費するのが当たり前の状態に陥っていきます。「日本は豊かなのだから、自分も浪費したっていいだろう」と。。

おカネを使うなといっているのではありません。マスコミに乗せられて、ムダなところにおカネを使いすぎなのです。

自分は何にお金を集中させるべきか、どうすれば最大の費用対効果(満足感、幸福感)を生み出せるのか、は、マスコミの情報の洪水をたくみに避けながら、自分のココロに耳を済ませないと、わからないのです。

逆にいえば、自分を満足させる手段は自分しかわからないのです。マスコミが決めてくれるわけではありません。


対外的な「自分探し」は旺盛に行うのに、自分のココロに向き合うことから逃げているうちは、継続的な満足感、幸福感は得られません。
真の答えは内面にあるかもしれないのです。
(再録おわり)

今年の2月時点で、今に至るまでの思想の結論はほぼ書いてありますね。。
結局、この日記では、常に同じことを、違ういいまわしで繰り返しているだけという。。
でも、ブレはないんですよ。