元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ある境地 オヨビでない ネット論(のつもり) シューキョウ論

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • オヨビでない

世の中というか、「時代」から、「呼ばれていない」わけです、私含めたほとんどのヒトは。
つまり、「オヨビでない」のがイコール「庶民の総体」であって。

そして、「オヨビでない」のは別に、ちっとも悪いことではないのです。呼ばれるからエラいのか? というハナシから始めなければならないのであって。

あまりにも、たとえばひとムカシ前の石原慎太郎都知事のように「時代の要請を受けてハナバナしく。。」といったような、そういう状況、あるいはそういうチャンスを与えられたヒトを崇拝しすぎます。
その「崇拝」とは、常に嫉妬羨望と表裏一体。
それはもう、「熱狂」に近いもので、対象がちょっとボロを出すとすぐにひきずりおろそうとします。


ところで最近、静かなる熱狂、のようなものがあるように思います。表面的に騒ぎ立てることはせずとも、ココロの中では、ある対象への熱狂が燃えたぎっているという。。 「オタク」とかがそれに該当するのでしょう。

ハナシ戻して。。
時代に「呼ばれる」というのは、ホントにランダムにピックアップされるわけじゃない。そして、能力順なわけでもありません。
「庶民の総体」がイヤでイヤで、必死で抜け出そうとする人種が、わざと目立つ格好をしたり(比喩です)、群れを押しのけて先頭、あるいは周縁に陣取ったりして、時代の「代理人」にピックアップされやすい位置にいる。
「どこ」がピックアップされやすいのか、必死で調べ、情報を得る。

そして「そこ」には、そういう種類の人種が群がることになり、その種の人間は皆同じ格好をしているから没個性になり、代理人はそこには見切りをつけてまた新しい場所を探すことになる。。


私は、そういう努力を、素晴らしいと思うのです。でも、「庶民の総体」は、妬みます。なぜなら、自らを否定されたわけですから。「総体」にとどまるのがイヤで抜け出ようとしている人種を許容はしません。
私は妬みはないですし(いや、潜在意識をほじくり返せばあるかもしれませんが)、「嫉妬羨望」のようなネガティブな感情を日常で持ちたくありませんので、そういう意味で自分も「庶民の総体」を抜け出たい。

いや、私の場合は「降りたい」わけです。

  • 権威になるかならないか[ネット論]

権威でなくともかまわないのですが、「有名か否か」でもいいのですが、ネット上で何かしらのオピニオンを表明すると、バーチャルな世界を「警邏中」の相対主義者につかまるわけです。
「オマエナニサマダ」と。
彼らの取り締まりは、ボランティアのわりにはやけに積極的です。こちらは最小単位のヒトに向かって語っているつもりでも、「ここはネットだぞ? オマエのコエは筒抜けなんだ、ちょっと静かにしろ」と、容赦ない。

でも、ネットの世界の「コエ」は、本来、聞こえてこないのです。こちらから取りにいかなければ。だから、放置してもよいはずなのです。
サイレントだから、たとえば職場においてはメール文化が発展するわけでして。。

ネット上でオピニオンを表明するというのは、リアル社会で、スーパーの伝言板に「ビラを貼っている」ようなイメージでしょうかね。そこには、小さな文字でいろいろ書いてある。通りすがるぐらいでは、目に飛び込んでこない。

確かにおっしゃるとおりで、貼ることにより全人類が目にする可能性はあります。そこにくれば、のハナシですが。
でもこちらはコエを出して叫んでいるわけではない。特定のヒトに対してそのビラを貼った場所を教えているだけです。「見たければどうぞきてください」と。

それと、そこに貼ることにより、自分が意識していない不特定多数の「誰か」に声を届けたい、という欲望があることも、否定はしません。否定はしませんし「それが何か?」ということです。


ですが、そのビラをやたら片っ端からチェックして、そこに書いてある連絡先にわざわざ連絡してきて「ジャマだからはがしておけ」と言ってまわるヒマ人がいるわけです。
さらに、「オレ(ワタシ)はこれを読んで不快だった。どこが不快だったかといえば。。」とわざわざ書いてある。ちゃんと読んでいるところがますますヒマ人というか。。

。。このたとえハナシはよくなかったかもしれません。ネット上で意見を表明する、というのは、「ビラを貼る」ではなくて、何らかの「再生機」のようなものを伝言板に付けておく、といったようなイメージかもしれません。その「再生機」のとなりには、そのヒトのプロフィールが書かれており。。再生ボタンを押すと、「コエ」が出る。そのコエはささやくようなものかもしれないし、怒鳴っているかもしれません。それは、押してみないとわからないのかもしれない。再生と停止ボタンしかなく、ボリューム調整はできない。


。。なんだかだいぶ脱線しましたね。。
それで、そのネットを警邏している相対主義者についてですが。。
カレらは「有名人」(リアル社会での有名人でも、ネットに特化した有名人でも、かまわないのですが)に対しては相対主義サクレツさせないような気がしています。「オマエナニサマダ」とは言わない(言えない)。
つまり、「ナニサマ」ではなく、その相対主義者にとっては「サマ」付けに値する対象なわけです。

それこそが、このバーチャル社会の「権威主義」なわけですね。

あれ? ここまで書いてきて疑問がわいてきましたけど。。
私は、ネット上の相対主義者は有名人に対して攻撃をかけない、という結論にしたかったのですが、現実には、有名になると、ブログのひとつのオピニオンに対して一斉攻撃があり、炎上したりしますね。

ここで仮説が立てられます。
・有名人のブログを炎上に追い込むのは警邏中の相対主義者ではなく一般ネチズンに過ぎない。相対主義者はどちらかというと無名人の「出る杭」のチェックに積極的
一般ネチズンこそが、有名人を炎上させようと常に虎視眈々と狙っている?(常にコトバ尻をつかまえようとしている)
どちらにしてもヒマ人に変わりはないですが。。


ちょっと混乱してきました。保留です。

人生観、のような、思想の話

  • 「そこに在る」でワルいか

とかく「逃げ出す」が花盛りのような気がしています。それが許容される世の中になってきた、といいますか。
「逃げ出す」とは物理的にも精神的にも、です。物理的に逃げ出す、というのは、「海外旅行」に象徴されますが、ホントに今そこに在る場所でふんばって、ガンバっているわけでもないのにやたらと「海外に『でも』いきたい。。」と考える。
正当な、ガンバったごほうびとしてバカンスで旅行するヒトというのは、昨今、ほとんどいなくなったのではないでしょうか。つまり今は「ファッション」、右に倣えで旅行しているだけです。
バカンスとは「逃避」ではありません。

それと、たとえば「見聞を広める」であれば、まァ学生であればモラトリアムの逃避手段として「見聞」のための海外旅行、あるいは短期留学もアリだとは思いますが、社会人になって見聞も何もないだろう、と。真に勉強のための留学ならば別ですが、たかが「見聞」。。
いかにモラトリアムが長くなっているとはいえ。

精神的に逃げ出す、というのは、たとえがムズカしいのですが、いってみれば、現代人のほとんどはリアル社会から精神的に逃げ出している、ともいえます。この文明の進化についてゆけず、逃げ出して周縁からこの社会を俯瞰するしかないような状況。。

でも私はたぶん、推測ですが、このリアル社会から精神的に逃げていたのですが、戻ってきた感があるのです。
常にこの「場」(これも比喩)に、いるような気がして。(【重要】マーク)

なぜなら、単にこの「場」が好きだからでしょうね。あらためて「好きだ」ということに気付いたといいますか。。


逆の視点で考えれば、「庶民の総体」は、精神的にはすでに現実逃避を完了しているにも関わらず、物理的にもさらに逃げようとしているわけですね。
「逃げたか」「逃げないか」ではなくて、逃げた前提で逃避距離を問題にしているだけなのです。
逃げた集団の中で、自分はそれでも対象の周縁にはいるぞ、と。皆、逃げたには変わりないのに、その集団の中で不毛な論争(どっちが勇気があるか)をしているわけです。

精神的には逃げたけれども、まだ「逃げ切って」いない、だから、さらに物理的にも逃げる資格があるんだ、という理屈です。


自分はリアル社会に「戻ってきた」ような気がしているので、相対的にこれが個性になってきているらしいです。
そうすると、私のように、精神的な意味で「地に足をつける」をモットーに行動している私に対して、何かしらの違和感なり嫉妬羨望を感じるヒトは、意識下で「自分は逃げている」という負い目を感じているに違いありません。という意味ではリトマス試験紙として貢献しているのかもしれない。

私はそういう「逃げている」ヒトには敏感ですし、カンタンにいえば「仲間」たりえないと思う。

  • 「地に足をつける」

ちょっと拡散してきたので、まとめたいですね。。
「逃げる」の物理的意味と精神的意味は密接につながっているはずなのですが、今その連関をうまく説明できそうにありません。

でも自分のことをいえば、自分はたとえば旅行などで、物理的に住処と離れたところにきたとしても、精神的には現実世界のしがらみから遊離できそうにありません。それは不幸なことかもしれませんが、自分の特徴としてあきらめる他ないのかもしれない。
でも、自分は今、というか今後も、現実世界から遊離している猶予はないのではないか、という切迫感を持っています。つまり「そんなヒマあるのか?」と。なぜそう思うかというのが、よくわかっていません。


常にココロはとある「場」にある。それを「逃げ出さない」と考えるか「逃げ出せない」と考えるか。私に対して違和感を感じたり批判的なヒトたちは後者なのですね。

でも、これは仮に自分が物理的に住処を離れたとしても、という前提であって、精神的に「地に足をつける」と考えているうちは、物理的に住処から遠く離れようとも思わないのでしょう。

そして、この「逃げる」については、葛藤を続けてゆくうちに次のステージが用意されているに違いない、と考えます。
つまり、精神的に地に足をつけたいときに、物理的にもテリトリーを離れたくない、とつなげて考えるのはちょっと「ヨワい」のです。次のステージへは進めないわけです。

精神的基盤が磐石であれば、場所は関係ないはずなのです。その境地に至るのが次のステージ。
そこでは、一即多、多即一の関係性のように、自身を、自分のテリトリーに位置させれば、精神的にはどこにでも遊離してゆけるのだと考えます。遊離できる、というのも、精神的に磐石な基盤があってこそ、です。

つまり。。
精神的な基盤が磐石であれば物理的位置には左右されず、物理的に自分のテリトリーから遊離しなくとも(しても)「ココロ」はどこへでも自由に飛翔させられる。(【重要】マーク)

そのステージまで到達すれば「逃げ」すらいらないのです。物理的にも精神的にも。
そして「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」わけですね。(ココ

その境地というのはおそらく、やや個人的すぎるきらいがあり、その境地自体を逃避であると批判するむきはあるでしょう。
ですが、そう考えるヒトとはもう、どうやってもハナシはあいませんね。ですから、仕方ない。

逃避と思われないために、足をすくわれないためには、仙人ライクに山奥にもこもらず、プチ出家して寺にこもらず、ただリアル社会に在り続けていれば、それでいいのだと思います。あくまで目指すは「毛坊主」ですから。。
都心という、きわめて逃避の誘惑に駆られやすいテリトリーにあえて「土着」を試み、ここでコドモを育て、家庭を守り、そこで生活を完結させる。
それだけで、誰に何を文句を言われる筋合いがあるのか? と、逆ギレしても全然オッケーだと思いますね。


うまく着地しました。。

死、あるいは宗教に近い話

  • 釣った魚にエサをやらない

新興シューキョウも、カネ集めとか集会とか折伏とか、けっこうタイヘンそうですよ、というハナシをしてくれたヒトがいます。

私は、新興シューキョウとは「いい子いい子」とアタマをなでてくれるところであり、「アナタは悪くないのです」と全面肯定してくれと、甘やかしてくれるところである、という考えを持っていますので、それに対する反論としてのこの発言だったわけですが。。

その、カネ集めとか集会とか云々、というのは、すべて、入信してからのハナシです。
入信させるまでが甘い誘惑なのだ、ということ。

でもそれらは。。決して「高みに行くための修行」ではないですよね。あまりに俗っぽすぎて。
いや、言い換えれば、あまりに「イデオロギー的」なのです。宗教的ではない。
これほどまでに「ねずみ講」と類似しているシステムはないでしょう。
いや、逆ですね。ねずみ講側が、新興シューキョウのシステムを参考にしたのでしょうか。

その団体の中では、(地位が)「高みに行く」ための「政治活動」なのでしょうけど。。

精神的な「高み」、次のステージと、その団体で出世してたどりつける「次のステージ」は違う。全く違うものです。
これほどまでに自明なこともないはずなのに。。 いざ「信仰」してしまうと気付かないものです。

だから私は盲目的に信仰するという行為がイヤです。ですが宗教については知りたいと強く願う。このふたつの考えは全く矛盾しません。


シューキョウを標榜していながら資本主義社会の経済活動とやり方が酷似している、というのは。。まァ仕方ないとは思いますが、あまりに資本主義におもねって俗っぽくなってゆくのもどうかと思いますね。

単に信仰というものが「サービス」あるいは「商品」にすぎないということですよね?
新興シューキョウという「業界」であって、信仰の内容で他の数多のシューキョウを差別化を図らなければならない。これはまさに商売と同じです。

そして、信者を増やし、キャッシュフローを安定させる。。
信者を増やす目的は100%「カネ」なんですよ。シューキョウ団体はアナタがカネさえおさめてくれればそれでいいので、アナタを幸せにしようなんてこれっぽっちも考えていません。それでいいんですか?(【重要】マーク)それでも信仰しますか? ということです。


新興シューキョウ業界内での差別化といっても。。
結局どこでも「アナタは悪くない」「仲間になりましょう」などと懐柔してゆくのは同じなわけですし、信仰はほぼ日蓮宗真宗の現代風アレンジなわけですから、あまり差異は発生しない。

と、なると、結局行き着くところは「教祖サマ」のインパクトになります。
カリスマ性、威光、みたいなところに依存します。そしてそれは、生来なものではなくて作り上げられたものです。

オウムの場合は多分に「インパクト」でしたが。。オウム亡き後は、何でしょう。ソフトにはなってきましたね。宗教離れは進みましたが、「スピリチュアル」のような、宗教色を弱めてはいるが宗教にきわめて近いところにいっただけ、という。。
依存体質の人間の割合は変わらないわけですから。そしてその人種はどっぷり庶民なわけですから、完全にトレンドで動きます。有名人が入信しているから、というのも強力な引き寄せる要素です。


それにしてもまたここで「権威主義」かよ、とは思いますね。。 「教祖サマ」がマスコミに出れば一発でしょう。テレビに出るヒト=エラいヒト、という刷り込みは、特に地方で根強く残っていますからね。。

いや、違うかもしれない。。
最近は、高度に戦略化された口コミかもしれませんね。「触れただけで足の怪我がなおった」はもう古いですからね。。

とにかく信者を集めるには権威が必要だというのは間違いありません。(口コミをプラスするにしても)そもそもなぜ権威が必要なのだろう? という素朴な疑問は、残ります。
なぜフラットな組織のままでは、シューキョウは発展してゆかないのか。。

このへんでもう、詰まります。もう少し勉強しなければなりません。