元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

世界は自分を中心に。。のハナシ2

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • フィールド・ワークのやりすぎ(自己批判

自分は何度も書いていますとおり、「フィールド・ワーク」主体で生きてきましたが、最近それが度を越している、といいますか。。

いや、その言い方は間違っていますね。フィールド・ワークの総量はほどよいのですが、それに見合うだけの「勉強」を全くしてこなかったのではないか、と強く感じるのです。

ですから、最近フィールド・ワークを抑え気味にして、意図的に読書量を増やしているのですが、そうしたらこの「書き出し」が以前にも増してとめどもなく出てくることとなり。。
およそ、7月末ぐらいからですから、約2ヶ月が経過しました。


やはり、バランスですね。自分は、本に生きるだけの人種にもなりたくないですし。。
フィールド・ワークをするにも、教養という素地が必要である、ということはある時期、痛感しました。ただ漫然と「活動」していてもほとんど意味はない。


ハナシは少し変わりますが、現代人は身体の健康よりも内面の健康にもっと気をつかったほうがよいと思います。
エクササイズは内面にも必要なのです。

内面の「スポーツジム」は、図書館なのでしょうかね。。 あるいは「英会話教室」的なものなのか。。


もう少しハナシはふくらむかもしれません。



人生観、のような、思想の話

  • 世界は自分を中心に。。のハナシ2

「まだいたの?」「まだあるの?」というモノ言いがキラいなのです。

たとえば、「あのヒトは今」的芸能人が、芸能活動を続けている、とか、一世を風靡したアソビスポットが未だ、コアなファンを獲得して地道に続けている、とか、そういうときに、「庶民の総体」から必ずといっていいほど発せられるこれらのコトバ。。

「まだいた」「まだある」ということは、かつては必ず、強い存在感をもって「いた」「あった」ということですね。それは誰しも認めている。

で、「庶民の総体」はかつて、その「シーン」に少しでも「いた」「あった」ことはあるのですか?
アナタという存在は「シーン」には存在すらしない、「完全無名」なのですよ。
その自覚がない。。 無名ということはなぜか「万能」だと思っているんですよね。まるで「神の領域」にいるかのごとく。。
「上から」ではなくて、谷底にいるのでは? そう思っておくべきです。


ところで。。ちょっとハナシがそれたのですが、先日書き出したハナシとつなげて。。
「世界」というのは、自分との関係性以外では存在しえないわけで、ということは、「考えることができる」人間ひとりひとりとの関係性で世界はパラレルに存在しているといってよいわけです。

ただし現代において問題になってきているのは、「私」の世界に、他人が存する、と信じて疑っていないヒトたちです。つまり、他人の世界を認めない。

これはひとえに「想像力の欠如」なわけですね。(これほどまでに「個性を伸ばす」教育がなされているはずなのに、なぜこれほどまでに想像力は欠如してゆくのだろうか。。)

テレビ、マスコミを離れて地道に活動している芸能人、地道に営業を続けるスポットに対して「まだいるの?」「まだあるの?」と反射的にいってしまうヒトは、まさにこの、想像力が欠如した人種ですね。(【重要】マーク)

それは確かに、「アナタの世界」ではそのヒトなり、スポットなりというのは消失していたかもしれない。でもそれはアナタの世界だけのできごとに過ぎない。そのローカル性というものを全く認識していない。
まさに「自己中心的」な考え方ですね。


さらに昨今、気をつけなければいけないのは、実は、「庶民の総体」における「アナタの世界」は、消失しつつあるのです。
つまり、「『庶民の総体』の世界」として一意になりつつあるということです。マスコミの情報操作によって。

だから、ほとんどの「庶民」は、マスコミに情報操作されているがゆえにそういうものに対して「まだいるの?」「まだあるの?」と発言しますね。判で押したかのように。


マスコミがさらに一枚上手なのは、「まだいるの?」「まだあるの?」を「ゆりもどしにかかる」というところです。それがすなわち「あのヒトは今」特集です。

使い古しを何度も再生産する情報操作の手法です。「庶民の総体」に「まだいるの?」「まだあるの?」と思わせた時点で、その存在はまた「中古利用」されてゆくことになりますね。

「庶民の総体」は情報操作、「中古の有効活用」のためにどこまでも、とことん利用されることになり、さらにそれを気づかせないようなマスコミ側の心ニクい「情報操作のための情報操作」も組み込まれている。


利用されるのはまだ仕方ないにしても、それに自覚的であってほしいのです。

こうありたいまたは反面教師

  • 自己責任のクセ

以前の自分の文章を読み返していて、われながら面白い観点だなあ、と思ったのは。。

自己責任のクセとしてまず「すべて自分が悪い」と考えてみるところから始めましょう、というのが自分の持論です。

別にそれを口に出さなくとも良い。
反面教師となるのは、まず「自分は悪くない」と思いこむヒト。(最近そういうヒト多いですよね)

そこまではふつうかもしれませんが、その、自身の責任範囲をやたらに拡げないことが肝要である、と書いてあるんですね。

これは、常に肝に銘じておきたいです。
なぜならば、このご時世では、すぐ責任範囲を押し付けられるからなんですよ。責任逃れしようとする輩が多すぎるから、「すべて引き受けよう」ということは間違っても対外的に表明してはならない。精神的に殺されますよ。

再録・継続

  • 嫉妬羨望から、丸投げへの2段階攻撃(20070528)

日常生活を淡々と文句なく過ごし、健康的な生活を送り、それだけでなく「継続」による効果がてきめんに出てきて、そのパワーを目の当たりにすると、ヒトによっては「出る杭は打たれる」よろしく嫉妬羨望による攻撃を始めます。

たとえば、「そんな、毎日毎日コツコツ続けて楽しい?」的なことを、言い出しますね。それは、自分がそれ(継続すること)をできないからです。

あるいは、「あのヒトはちょっと変わっている」的なことを、ネガティブイメージを吹き込みつつ他人に吹聴したりします。

その「引きずりおろす」ための攻撃も、強い意志を持って無視しているとやがては収まります。

ところが、収まるのはいいのですが、そこからがもっとタチが悪いのです。

次は、「出る杭」が完全に表出してしまったらもう引っ込めるのはあきらめて、「○○さんは素晴らしいことを続けていらっしゃる。今度からいろいろ○○さんにお願いしましょう」と、コロっと変わってきます。パワーを「利用する」にシフトしてゆくわけです。

そのパワーをおすそ分けしろよ、ということですね。庶民がなかなかできない努力をして継続して、必死になって得た成果を、周辺にタダで分けろ、というわけです。それが当然である、と。

これも、個人的にちょこちょことお願いしてくるだけでなく、だんだん「○○さんにお願いするといろいろ便宜をはかってくれるらしい」と他人に噂を広める輩がいます。

それにより、わらわらと「タカり」がやってきます。タダ乗り大好きなヒトたちです。

そして、誰も同じように、やろうとしない。。 

黙ってればおすそ分けがくるから。

「継続して努力できる」人材に丸投げしてしまう。

「庶民」を自認するヒトたちはラクなほうへ逃げる。そして、タカる。

この日記でも何度も書いてあるとおり、その執拗な2段階攻撃によって、「継続」して何らかの成果を残してゆくことを「馬鹿らしい」と感じてしまい、やめてしまうヒトたちがいます。

努力を継続することが、自分自身のためでなく、他人のタカりにも対応しなければならなくなり、やがて自転車操業に陥り、破綻します。


それが、とてももったいない。この国にとって。

この損失が、「悪しき平等主義」の弊害なのです。

このトピックはあえて具体的例を挙げていませんが、わかる方には痛いほどわかるはずです。


我々の血のにじむような努力と、それにより得た成果に対して、嫉妬羨望を根拠とする攻撃をしてきたヒトたちには、反撃はせずとも、その事実を決して忘れてはならない、と強く思います。

たとえば、努力の結果ある程度の名声を成したとして、そこですり寄ってくる人間(「杭」が出ようとしていたときには攻撃の手を緩めなかった)に対して、過去を清算してはなりません。

今読んでいる漫画「鈴木先生」にも似たようなことが書いてありましたが、過去を清算しないことで「ココロの狭い人間」と非難されたとしても、全く問題はないのです。

ある意味そのとおりなのですから。

攻撃されたことを忘れてしまったら、攻撃したモノ勝ちではないですか。それでは、不当な攻撃をした側がいつまで経っても反省しません。

そんな世の中でよいのですか?

攻撃好きなヒトたちに対しては、どんどん「ココロの狭い人間」になりたいものです。
(再録おわり)