元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

批判めいた意見に対して 「庶民」批判

本来の日記部分

今日は、この日記に対する批判(めいた意見)について考えてみます。

こうありたいまたは反面教師

  • 「馬鹿にしてんのか!?」2

先日、世の中には常に「馬鹿にしてんのか!?」とつっかかってくるヒトが存在する、ということを書きました。

まず、それは私の口調が、「馬鹿にしてんのか!?」を誘発しているのではないか? という意見に対して。
果たして私の口調に「トゲ」はあるのか? 見下した態度をとっているのか? ということ。

これに対する答えは、この反応(私に対して「馬鹿にしてんのか!?」とつっかかってくる)のある前は、99%そのような態度は取っていません。
残1%は何か、というと、「オマエは世の中のすべての人間に対してそういう態度をとっている」と反論されては、おしまいだからです。
そのようなことは断じてありません。なぜならば、私は、出発点がヒトより低いからです。公務員とか、一流とよばれるサラリーマンとか、世の中で成功をおさめているといわれているヒトたちは、世の中すべてを見下したような態度をとっていますが。。 未だに。

で、この反応がキたあとは、そういう態度を取っているかもしれませんね。。 ロコツではないにしても。


次に、先日、こういうヒトは被害妄想だと書きましたが、私こそ被害妄想のカタマリではないか?という意見に対して。

先日まで、自分でもそう思っていたんですよね。
でも、違うのではないか? と。被害妄想というのは、ある意味「自分が悪い」と考えてしまうことであって、ここ最近は、「自分が悪い」と思うことはやめています。

自分が継続的な努力をして、自分を高めようとしているときに、(その「高める」には、なるべく周囲に迷惑をかけまいとする姿勢も含まれます)それを始めてから少しずつ周辺の風当たりが強くなってきたように感じたのです。

ですので、まったく悪いことはしていない。周辺が勝手に騒がしくなってきているだけです。
自分は、自分のできうる範囲で、周囲に迷惑をかけまいという「配慮」をしているので、ホントウは他人にも、私がやってるのと同じレベルの配慮を求めたかったのですが、その考えをやめました。

自分が「継続的な努力」をやめれば元の平和な生活が、戻ってくるのかもしれませんが、それはできないのです。

  • 「庶民」批判

まずは、4ヶ月前の自分の考えを三連発で。
以下、再録

    • いつもの「マスコミによる洗脳完了しているヒトたち」についてのハナシ(20070525)

マスコミに洗脳されるヒトたちは、そういえば、自ら喜んで洗脳されているのでした。

「もう俺(あるいは「私」)の行動を既定してくれ」とまで内心思っているんですよね。。

本人は、自分が、意思決定ができない人間だとはこれっぽっちも考えていないのです。最終的には自分が決断しているのだけれど、そこに至るまでの過程で100%マスコミに操作されていることに気付いていない。

いや、ムカシは気付いてすらいないヒトが多かったのですが、最近はうすうす感づいているヒトのほうが多いかもしれません。感づいていても、ラクだからそのまま流されてしまっているのです。

企業が宣伝を打てば狂喜して行列し、まんまとカネを使う。

戦前も、マスコミの「ニッポン連戦連勝」に大衆は喜んで洗脳されていたわけです。

「マスコミによる洗脳完了されてるヒトたち」は自分にとってはあまりにも強固な存在なのです。まず、絶対数が違いすぎます。

    • いつもの「続けることは大事」のハナシ

「続けること」は強い意志が必要で、そこでヒトを選別します。「続けること」ができるヒトか、できないヒトか、という選別。

「続けることができるヒト」は選ばれたヒトであり、選ばれたヒトは、嫉妬羨望からくる「迫害」(?)に耐えなければならないこともあります。

なぜか、ある意味世の中がほうっておいてくれない。なぜなら、まさに「継続は力なり」で、続けることにより「成果」が突出してくるからです。

続けないヒトたちとの差が「あまりにも」大きくなってくるから、目立つわけです。

    • 自己分析と自分探しは違う

「自己分析と自分探しは違う」というパンチラインをひらめいたときに、これはもしかしたら自分のmy座右の銘ベスト3に入ってくるかなあ、と、思いましたね。

自分がこの日記なり、メルマガなりで書き出している行為は究極の自己分析であると自負しています。

そして、確固たる自分はもうここに「いる」ので、自分探しをする必要はありません。

ムカシからここにいる。


(再録おわり)

ここに書かれているのはいくつかのたとえですが、自分は、
・「マスコミによる洗脳完了しているヒトたち」
・「続けること」ができないヒト
・(もう「いいオトナ」なのに)「自分探し」をしているヒト
に対して批判的です。いや、批判を通り越して、「キラい」であるといってよいと思います。

自分が、まず、「違和感」を感じる行動、人種のパターンがあり、その「違和感」が私にとって度を越していれば、批判的になり、そうするとこの日記に「書き出される」(「吐き出される」?)わけですね。

批判対象はそのまま「反面教師」になります。つまり、「こうはなるまい」と。。
「こうはなるまい」は、上の3つだけではなくて、たくさんあるのです。その具体的例を、これまでどんどん日記の中に書き出してきました。

で、これらの具体的な批判対象をすべて兼ね備えているのが、まさに「庶民」なのではないか? と、最近そういう結論に達しつつあります。

そして、書き出して(吐き出して)みてわかったのは、「ああ、これは自身そのものだ」と。。
逆に、自分はそれほど世の中に対してエラソーではないのだな、というのがわかった、といいますか。
自分は完全に、「庶民」に飲み込まれていたからこそ、1年以上前(この日記をつけはじめる前)は、自身(イコール庶民)に対する違和感が顕現してこなかったのだ、と思いますね。

日記をつけざるを得なくなったのは、もう、自身のキャパが限界に達していたからで、とにかく、「なんかおかしいんじゃないか?」(自分も、周囲も、「世の中」も)という思いを、「違和感」というかたちで書き出す(吐き出す)しかなかった。もはやその「なんかおかしいんじゃないか?」を、許容し、消化することは、できなくなっていたのです。

「なんかおかしいんじゃないか?」と感じ始めたことは、自身の「庶民」からの異化はもう始まっていたのだと推測します。

そして、おそらく自分は、「庶民」からの異化について、「上」へ向かう錯覚だけは持つまい、と常に心がけてきました。「上」に向かうとは要は、見下した態度をとることです。

自分が目指すのは、「横超」だな、と。これをそのまま「横に超える」と解釈するのは、もしかしたら仏教的には違うかもしれませんが。。


「横超」を目指し、それがある程度実践されてくると、ますます「庶民」が抱える矛盾や「根本的なオカシさ」が目に付いてきます。

日記の文章も、表現をセーブしていたつもりが、以前よりロコツになってきて。。(それは自身でも感じていました)
でもまあ、とにかく自分の内にあるいわゆる「ドロっとしたモノ」を吐き出すのが、自分にとっての最優先事項だったものですから。。 言説が攻撃的になってきたり、シツコい批判になっていたとしても、それは黙認してきました。

なぜなら、自分の目的は、(できるかどうかはわかりませんが)まずこの「ドロっとしたモノ」を意識上、あるいは、表層的な無意識からすべて取り出してしまって、そこに何が見えてくるのか、を確認することだからです。
ですから、「ドロっとしたモノ」はせっせせっせと、書き出してきました。これはまさに「ドブさらい」です。

なのですが、「ドロっとしたモノ」は減るどころかますます増えてゆく感じで。。
自分の「怒り」の感情を刺激されると、「ドロっとしたモノ」がどさっと「排泄」される。それを書き出す、の繰り返し。
自分が「こうありたい」という行動をとると、周辺から、自分の「怒り」の感情を刺激するような、「嫉妬羨望」をベースにした「攻撃」を受ける。。

ですからこの日記に書き出される内容も「ほっといてくれ!」的な、ヒネりのない怒りの表現に堕してきますね。
でもそれすらも、仕方ないのかな、と。


つづけましょう。

再録・継続

  • 会社シリーズ 散らかしたもん勝ち(20061228)

「偽ホワイトカラー」はずさんなプランニングをして、設計して、「散らかしたもん勝ち」か? と、いうことです。

散らかし放題で何の責任も問われないのであれば、皆お金をもらって散らかしたがるのは当然です。

無計画よりも計画的のほうがすばらしいのは当然です。アドリブというのは計画性の中に生まれ、その中でこそ活きます。

ビジネスに活きる人たちの大部分は、自由を与えても無計画にせっかくの仕事を「ぐだぐだに」してしまう人材ばかりなんですよ。最初は自由にやらせてくれない、「オレに任せてくれれば」と大風呂敷を広げていても、いざ仕事を始めてみると、ぐだぐだにしてしまってからその当事者が「指示がなかった」とか「部下が自由にやれるような雰囲気づくりをするのが上司であって、全部丸投げされては困る」とか平気で言うのです。