元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「馬鹿にしてんのか!?」という被害妄想

本来の日記部分

昨日の定期入れを落とした件を未だひきずっており。。当分ひきずりますねこれは。。
でも何かの「変わり目」なような気がしてならないのですが。。


祝日は最近、急激に好きではなくなってきました。
原因はいろいろありますが、最近は自己嫌悪的なもの。。 祝日だといろいろなものが「ユルむ」といいますか。
ユルんでいる自分がイヤ、というか。。

祝日だからといってユルめずにいろいろなことを淡々と進めたほうがよいようです、自分は。
祝日にユルめた分が必ず後にのしかかるようになる。

人生観、のような、思想の話

  • 欲望に埋没するヒトたち

最近、欲望に埋没したいヒトがほとんどである、という事実は。。
つまりは、横並びでよい、と。流行であれば「ちょっと先」を「自認」さえできればそれでいい。

ですが、その「ちょっと先」というのはすでに完全に没個性になっています。

欲望に埋没するのも、流行のモノに飛びつくのも、すべて没個性。でも、それでいいほとんどのヒトは考えている。
(そして私は、意識的に埋没するのはゼッタイにイヤです)


はたして、なぜ日本人はそうなっていくのか?


というのは、最近やっとわかってきたのです。
それは、結局は、世の中が豊かになったからですよね。

ありきたりな結論ですが。。ここにたどりつくまでに時間がかかっています。

なぜなら、世の中が豊かになれば、選択肢が広がるわけですから、ヒトは横並び許容精神を捨ててゆくに違いないい、とつい最近まで考えていたのです。「選択の自由」があるのですから。その権利を最大限行使するのが「進化した」豊かな時代の人間像である、と。

でも、それは全く違うようです。(【重要】マーク)


今の時代、相当豊かになった証左として、「ふつう」で相当物質的に豊かな生活を送ることができます。

ムカシは、「ふつう」は「やや貧乏」だったのですよ。自分と同じぐらいの世代のヒトは、かすかに記憶に残っているはずですが。。

でも今は、違います。「ふつう」は豊かであり、それは、高度成長期にすべての日本人が望んだことです。

そして今、「ふつう」でいること、すなわち埋没していることは、ものすごい「ラク」なのですね。ラクだから埋没する、つまり「ふつう」のままでとどまる。


でもそれでは、自分が何度も書いている、「通奏低音としての不満足感」から逃れることはできないのです。永遠に払拭することはできないのです。
なぜならば、この現代社会で「ふつう」に埋没することはつまりは「欲望に埋没する」こととイコールであり、基本的に欲望を突破することは、資本主義社会では是とされないからです。

「欲望」が「不満足感」のガソリンなのですから。


豊かになった、といえば。。
今はファッションも相当洗練されてきていて、「ふつう」でもだいぶコギレイになりましたよね。
それは、とてもいいことなのでしょう。

特に男子は。。
ムカシの「ふつう」の成年男子は、白ワイシャツにノースリーブのランニング、オヤジスラックスに七三でした。
ちょっとムカシが、そんな時代だったのですよ。


コギレイだからこそ、そこに埋没してもゼンゼン構わないわけです。

死、あるいは宗教に近い話

  • 「思議」について

最近相当気になっている「思議」というコトバ。。

逆に「不思議」とは、元来「思議にあらず」ということであり、そのコトバには超越性が含まれていたはずなのですが。。

今日は、超越性は消滅して単なる「不思議ちゃん」に堕してしまっています。

こうありたいまたは反面教師

  • スッパいブドウ

スッパいブドウでいいのですよ。
世の中には、カネさえ出せばオイシい食べ物があるということも、知っています。
でも、別に食べなくともいいじゃないですか。

この寓話でキツネは(キツネでしたっけ?)、食べたことのないブドウを「スッパい」と断言していますが、私は、食べたことのない高級フランス料理を「マズい」とはいいません。

「マズい」とはいいませんが、「値段に見合う満足はゼッタイないに違いない」とは言います。

  • 「モンスター」

先日書いた「モンスター・ペアレント」ですけど。。

「モンスター」の定義とは結局、世の中のすべての気に食わないこと、つまり、ほとんどそれらは自分に起因するわけですが、それらをすべて、余すことなく、ブラックホールのように飲み込んで自分の通奏低音としての「不満足感」の栄養としてゆけるヒトたちのことです。

こういうヒトはすなわち私と相容れないヒトです。

そしてそういうヒトたちは、「反省」という概念を知らない。幼い時分に教わっていないのか、あるいは、幼い時分ですでにある意味「老成」して、オトナの教えをムシできたか。。
困りものですね。

  • 「馬鹿にしてんのか!?」

自分の人生で関わったヒトのうち、数人、「馬鹿にしてんのか!?」が口ぐせのヒトがいました。
そのコトバは冗談っぽいときもあればホンキモードのときもあり。。

とにかく、「おびえてるな〜」という印象だったのですね。
「何におびえているのだろう?」と。

仮説からいえば、常に自分が馬鹿にされているのではないか、とおびえているヒトは馬鹿なのではないか、ということですよね。逆説的に自分は馬鹿だと思い込んでいるわけですから。

そのままではいつまで経ってもカイゼンはなさそうです。

そういう被害妄想を兼ね備えたヒトたちはとてもふつーで、馬鹿にされるような要素はおそらくないので、周囲の人間はそのヒトに対して馬鹿にしているつもりはない。
でも、些細なコトバ尻をとって「馬鹿にしてんのか!?」とくる。。

そんなこと言われたら「おー馬鹿にしてやろうじゃないか」となりますよ。(場合によっては)

自分について

  • 天気の話題

最近、ご近所さんに遭遇したときとか、(挨拶としての)天気の話をしなくなってしまっているような気がします。
おそらく、挨拶が面倒だから、ではないんですよね。天気を、ホントウに気にしていないんです。天気が気になっていたら時候の挨拶として口から出てくると思うのですが。。

天気はうつろうものだから、話しても仕方がないだろう、という考えがどこかにありますね、最近は。
それは良いことなのか悪いことなのか。。

でも、毎日今日は晴れか、曇りか、雨か、というのを1日数分、考え続けているのはどうかと思うのですが。。
これは相場と同じかもしれませんね。