元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「たまには。。」の撲滅 メルマ

本来の日記部分

ホントウに、今だからこそ政局に興味を持たなければならないでしょうか?
ワイドショー政治よりも「自分」のほうがよっぽど大事なような気がします。

自分は常に「自分」を大事にしてきました。
一貫しているがこそ、それがときには「自己中心」といわれたときもありますし、常に周囲に誤解を与えてきたりもしました。

ですが、今は、少し追い風のような気もしています。
自分を大事にできない人間は周囲を大事にできません。ましては、世の中、天下国家、世界、環境問題を語ることはゼッタイにできません。
これは、アタリマエのことなのです。アタリマエのことをアタリマエと言える世の中になってきているので、少しだけ、将来に希望を持てています。

死、あるいは宗教に近い話

  • メルマガ

ここ2ヶ月ぐらいの自分の日記に書き出した(吐き出した?)内容を整理して、メルマガに再録したいと考えています。

おそらく半年ぐらい前から、自分の中では気になっていたこの「思想」と「宗教」というキーワード。
でも、現代社会においてはこの「思想」と「宗教」というのはことさら厄介な問題です。このふたつのコトバを出しただけで「キケン分子」ととられかねません。ただでさえ、「嫉妬羨望」が跋扈する「馬鹿らしい」世の中になりつつあるというのに。。
こんなキーワードを打ち出したら、「アチラ側のヒトたち」につけ入るスキを与えてしまうようなものでしょう。


でも自分が目指している方向性は、バクゼンとはしていますが、まったく「厄介」なシロモノではありません。
自分が、「次のステージ」にいきたいという、それだけなのです。独りよがりではありますが自己完結してるし、他人に迷惑をかけるつもりもない。他人に「影響」を与えるつもりもない。
市井の生活を続けながら、です。

もちろん、他人のカネを使い込もうという気もありませんよ。新興シューキョウではないのですから。


自分にとっての「南無阿弥陀仏」を見つける旅なのです。
それは「南無阿弥陀仏」であってもよいし、なくともよいのです。


なぜ、多くの市井の人間にとって、「思想」と「宗教」がアヘンになってしまうのか?
そして、自分にとってこのふたつが、今はそうでなくともいずれアヘンになる可能性も大いにあるのではないか?

他人に迷惑をかけなければ、いいのです。
ですけど、私が空き時間に本を読むだけで、攻撃してくる輩もいますからね。。「いい身分ですね」とかなんとか。。私はやることはやっているのですが。

私が本を読む、あるいは、早起きして考え事をする、あるいは、規則正しい生活をする、など、私の生活を見て不快感を感じるヒトはいるようで、それすらも「他人への迷惑」になってしまうのであれば、こっちが大迷惑というものです。


釈尊菩提樹の下で「悟り」に入ろうとするそのときに、それを阻止せんとたくさんの迫害を受けたそうです。
なぜ、阻止しようとするのでしょうか? 「悟り」により強大な権力を得てしまう、という危惧があったのでしょうか?

現代に適用すれば、「超然」というコトバになるのでしょうが、超然としている人間を見ると、ヒトのココロはざわざわっとするらしいのです。嫉妬羨望はもちろん、それ以外の何かが蠢く。

  • たとえば「たまにカラいものを食べたくなる」を絶滅する方法

現世にいきていればこの「たまには。。○○したくなる(したっていいじゃない)」は常につきまとう欲望ですね。

ストレス発散、息抜き、旅行、etc。。
私は、この「たまには。。」を撲滅したいと考えています。それは相当ムカシから考えていたことで、ここから宗教にアプローチした、ともいえるのです。

しっかりと修行している坊さんは、この「たまには。。」を撲滅できているような気がするので、それにあやかりたいなあ、という下心ですけども。。


節制もいいところまできているという自負はあるのですが。。
この「たまには。。」を振り払うのは、今の自分にはムリですね。

これについてだけは最近弱気で、HowToがあったらぜひ知りたい、とまで思いつめています。(楽観的に思いつめる、という手法もアリです)
もちろん在家で、です。今の自分にとって「出家」は逃げにしか見えません。


キーワードは「カネ」です。それは、わかっています。カネに執着しなくなればこの「たまには。。」も消失する。
でもそれはどうやって? というあたりです。考えているのは。

再録・継続

この本を読んで腑に落ちたことがあります。

ムカシ、自分が育った田舎では、いわゆる「地域の目」というのは確かにありましたが、それは表層的なものでした。あるいは偶発的、とでもいったらいいのか。。

そもそも「地域の目」などというカッコいい話ではなくて、ムカシはだいたい職住近接で、皆の生活リズムというか、生活時間帯が近いから、いたるところに地域の人が「いた」というだけなのです。

ムカシのような「地域の目」を復活させよう、という考え方自体が間違っているといいますか、その「ゆり戻し」が過剰すぎるのです。ムカシは、地域に人が「いる」だけであってコドモの世界にオトナは入ってこなかったはずなのです。そして、オトナはそもそもコドモの世界に興味がなかったのです。

    • 「個性的化」

これも、この本を読んで感じたことですが。。

自分は、田舎の典型的なガキから、これまた典型的な大学生を経て、少しずつ自分を「個性的化」していったような気がします。つまり、この本に書いてあるとおり、個性的になるというのは努力ですよ。先天的なものではない。先天的なものは「才能」なのです。

「個性的化」する素質はあったのかもしれないしなかったのかもしれないですが、とにかく人は、過剰に個性的であろうとしなければ個性的にはなれない、という、単なる凡人にすぎないという自覚はありました。

おそらく自分の客観化、というか、自分の「リレキ書づくり」というのが、自分のウラテーマだとは思うんですね。それなりにオモシロい経歴をmyリレキ書にプロットしてゆきたい、というか。。

ただ、根は凡人ですから、その経歴というのは「ちょっと」おもしろい以上にはなりえないわけです。たとえば、犯罪とか逮捕とか、自分のリレキ書には介入してくる余地がないのです。