元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

マジメなヒトは報われましょうよ 過程至上主義2

  • マジメなヒトは報われましょうよ

マジメなヒトが報われて何がワルいのでしょうか? 誰もが「総論賛成」のはずなのに。。


マジメとは、強いということですよ。もっと自信を持って!
若い頃、ワルいことができなかった、不良になりきれなかった、なんて、負い目を感じなくてもよい。若い頃、アナタは、ヒトを傷つけなかった。アナタには、激動の思春期の中で、一本筋の通った「意志」があった。それにより他人との差別化をしてもいい。それは、タイヘンなことなのです。

集団でしかワルいことができなかったあなたのクラスメートたちを、あなたは軽蔑してよいのです。まァおおっぴらに軽蔑するのはやめてココロの中にとどめておくぐらいにしましょう。

軽蔑できるヒトは、「基本、独り」で生きることができる資格がある。「集団でしかワルいことができなかったあなたのクラスメートたち」は、これからのものすごい長い人生も、「集団」でしか生きてゆけない。自分で自分の人生を選択することができない。かわいそうに。。
ほら、「軽蔑」するに足りるでしょう?


ハンチクな「ムカシはオレもワルかった」というハナシを聞かされると、吐きそうになりますね。ムカムカして。そのハナシすら類型化されて、トレンドがある。つまり、自分は流行に乗っていたんだ、ということを吐露しているにすぎません。しかもそれに本人は気付いてないから。。


ただ残念なことに。。
単なるマジメだけだと、「甘ったれのオトナ」から抜きん出ていません。なぜならば、マジメな(だけの)ヒトというのは例外なく過程重視主義だからです。

マジメに、「結果」を追求しましょうよ。それでいいじゃありませんか。

マジメなヒトは、そこから一歩進んで、「マジメに考える」状態になりましょう!
そうすれば最強ですよ。


会社シリーズ

  • ドライな関係で何が悪いのか

現代社会の人間関係なんて、ドライでよいのです。
悲劇が生まれるのはウェットな関係ばかり。皆、その事実を知ってますよね?

山形浩生さんの文章を引用したことがありました


斎藤一人さんも、言っています。人間関係には適度な距離が必要、と。
距離をおくことが「孤独」につながる、という考えが間違っているのですね。

現代社会を、通奏低音としての「うっすらとした不満足感」を払拭して生きるためには、まず、関係性をドライにして颯爽と生きることができる「体質」に自分を変えてゆかなければなりません。


私が、現代人に対して希望を失っていない理由のひとつは、現代人どうしは、関係性がドライであろうがウェットであろうが、激甚災害のときなどは、助け合うに決まっている、という確信があること。(【重要】マーク)

ヒトは、自分に余裕があれば他人を助けようとしますよ。でもそれは順序がある。自分の次は家族、家族の次は親類。。そこまで無事じゃないと他人は助けない。いや、助けてはいけないと思います。


ところで。。ハナシがそれてしまいましたが、会社にたとえれば。。
「使えない」上司あるいは部下とのウェットな関係を強要され、しかもそれが長期にわたって続く、となれば、これはただの地獄ではないのかと思います。
いわゆる上層部は、これも修行だの経験だの。。 自分もそういうイヤな経験をしてきているから、下にも押し付ける。

ウェットな関係性を構築することにより、ムカシはチームとしての生産性が上がっていたのかもしれない。ですがそれは、そのチームを構成する人間が「大人」であれば機能するというハナシにすぎません。

ムカシの会社組織というのは、新入りでもほぼ「大人」でした。それはなぜかというと、社会に出てきている、という時点でいろいろなものから「卒業」済みだったからです。

でも今は、会社組織の大部分は「甘ったれのオトナ」と化していますから(中間管理職の層まで食い込んでいます)
そんな集団がムカシのままの手法(ウェット)でやってゆけるはずがない。前提が違うのです。

今の「チーム」というものは、甘ったれでない人間がバカをみるようになっています。
だから、いっそのこと、リーダ、マネージャレベルまでが「甘ったれのオトナ」であったほうが、組織がうまくまわるのです。


「甘ったれのオトナ」の対人傾向として、ウェットな関係を望んでいるクセに、ドライな関係性を「強要」する、という、よくわからない矛盾した考えを持っています。「ウェットな関係待ち」。自らそうなろうとはしません。で、なかなかウェットな関係にならないと、自分のことは棚に上げて不機嫌になったり。。「なんで歩み寄ってこないんだ!」と。

イヤですね、そんな人間が跋扈する「職場」というのは。

「世代間」の話

  • 結果がすべて(過程至上主義2)

「大人」の世界というのは、イコール「結果がすべての世界」ということでフィックスしてよいのではないでしょうか。

この世界にこれない「甘ったれのオトナ」が激増している、という構図。

過程を重視するのが子供の世界。子供の世界は結果がすべてではありません。
そこにいつまでもとどまっていたいヒトたち。

そういうヒトたちを「少年のココロを持っている」と持ち上げる、さらに輪をかけてアタマのワルいヒトたちもいます。
そうすると、まんまと付け上がり。。

大人の世界にこれないオトナは、現代社会の不適格者である、と断じてみようか、と思いましたが、もしかしたら、そういうオトナが多数派になってしまうかもしれないんですよね。あいや、マイッタなあ。。

そすると、ふつうの「大人」こそが不適格者になってしまう。


そんな社会になる頃には自分もいないでしょうし、その頃にはこの国は滅びているのでしょう。アメリカの州のひとつになるんじゃないですかね。

抜粋・紹介

「柳田 東洋人と西洋人のいわゆる文化型の違いには、その基底として生と死との距離の問題があるためじゃあないか。日本人などには、生から死、死から生への交通という考えが昔からあった。死んでもあの世に往っても、来ようと思えばこられる。また行こうと思えばこちらからも自由にいける。そういうようにして死を比較的軽んずるような形になることは、日本ばかりか対岸大陸でも注意せられている。(略)生と死との距離をあまりに近くみようとする民族は、いくぶんか早く滅びやすかったのじゃあないか。死んでもまたやがて生まれて来られるという安心から、戦争でも徹底的に闘うという気持ちがあって絶滅しやすかったのではないか。日本だけは周囲に海をもっていたから、外から大きな力をもって入ってくるには障碍が多くて、神風の信仰が出来たり、元寇の先例でもってこれからもやっていけるだけの安全感を保持しえたのだったが、今度の戦争が一つのまったく新しい経験になるのじゃあなかったかと思う。(略)
たとえば死んで生まれ変るといったようなときにも、六道三界どこへでもいって生まれるというのではなくて、必ず前世と縁のある近いところに生まれて、同じ故郷のために働き、またその見聞の範囲内に活躍する、そういうように生と死との交通がキリスト教なんかが考えているのと非常に違って、互いに驚くべき近かったのじゃあないかしらん。(略)栄えてまた滅亡した民族は過去の世界に多い。その歴史は概して忘れられている。日本人とよく似た人類が地球の上に不思議に少ないのは、他ではすみやかに滅び去るようなこの民族性を、特徴としてもっていたからではないか。生まれ変るという考えはいい考えだけれども、返りそこなうというチャンスが非常に多い。だからわれわれの周囲に言語・体質・容貌・感情等の上から見て、日本人の親類らしいものがみつからなくなったのではないか。信仰の上からいっても、ごく似かよった民族というものがこの近くにいないような気がする。(略)」

「柳田 いくら英邁な人が出てきても、古人の書いたものを理解するだけで一生を老いこみ、またはそれだけで学者の職業が成り立つようでは、国としては実は何もできない。怠け者の口実には十分かもしれないが、読んでも読んでも後から本が出てきて、一生本を読んで暮らしてしまったという人が多くては、ただの消費文化である。そうでなければ勉強をいい加減なところでやめて、やや当てずっぽうなことを、成るべく素人の方に説くようになる。それをしなければならないあいだは民俗学が進むことがない。(略)」
(抜粋・紹介終わり)

再録・継続

  • まとめ?(【重要】マーク)(20070406)

今日、とても重要なことをひらめいたのですが。。

お金を使わず、お金を貯め、健康でいられる人間こそが真の「勝ち組」なんだなあ、と。

だから、真の「勝ち組」とは、大金持ちにだけ門戸が開かれているわけではないのです。

また、いわゆる「不労所得者」が幸せだとも限らないのです。いえ、「不労」はむしろ不幸に近いのではないかと思われます。

健康とはもちろん、精神的健康(健全)も含みます。精神的健全さが肉体的な健康に直結するわけですから。月並みですが、ストレスをためてはなりません。また、ストレスフリーの時間が長く続くのもよくありません。

大切なのはストレスのコントロールです。現代の物質主義に絡め取られてしまっては、ストレスをコントロールすることはできないのです。

「ストレス解消」と考えている時点でストレスのコントロールができていない証拠です。ストレス解消のためにある程度の多額のお金と時間を必要とするのであれば、「コントロール」には至っていません。

この「多額」というのは、自分が自由に使えるお金に対する比率であって絶対的なものではありません。

大金持ちが年に一度、海外旅行に行っても金銭的には痛くも痒くもないでしょう。

また、時間のコントロールも大事になってきます。たとえば、極端な話ですが、ストレス解消のために、週に一度、必ず1泊で旅行しなければ解消されないとしたら、仮にその人の休暇が土、日しかないのであれば、余暇時間のうちの膨大な割合を、ストレス解消にあてなければなりません。これでは、ストレスコントロールにはなりません。真の余暇時間の減少は新たなストレスを生みます。これの繰り返しになってしまいます。

ストレスが蓄積されてゆくのは当然のことなので、この解消手段になるべくお金を使わない方向にシフトしてゆきたい。


お金を使わない生活を続ければ、健康になってゆき、かつ「環境にも優しい」。

都市において、なるべくお金を使わない生活というのは究極のファッションであり、アナーキズムであると考えます。

たとえば「仙人的な」という言葉からは、「落武者」的な、「逃げ」に近いような感じを受けます。自分は「都市」にへばりついて生きてゆきたい。なぜならば、都市で生きることが好きだ、ということに現在、全くウソ偽りがないからです。

仙人的にならずに都市で生き、かつ、ある意味仙人的になるべくお金を使わない生活を続けられるのであればそれは圧倒的にファッショナブルだと考えます。

ここで、「お金を使わないようにしよう、という都市生活はありえない」というテーゼにおいては、高度消費社会を具現化しているこの「都市」で、極力お金を使わず(=消費せず)生活してゆくのは、現代社会でもっともアナーキーな生き方である、といってよいでしょう。自分の生きる目的はここにあるのかな、と今日思いましたね。

あとは、前述したストレスコントロールだけです。都市においてお金を使いたいという欲求をコントロールできたのであれば、もうそれで「アガリ」ではないでしょうか。逆に考えるとアガったら田舎に引っ込んでもよいかな、と。。

自分の最近のマイブームである「節制」はここにつながってきてるのか。。 書き出してみてすっきりしました。

外食は、B級へシフト。(あらためて言うまでもなく、ムカシからそうですが)

別に外食するな、といっているわけではないのです。使う金額はムリのない範囲で、搾取されない範囲で行うべきだということです。

(再録終わり)

これは、重要というか「超・重要」ですね。。 今の自分の行動規範になっている。