元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

人ゴミ 永遠に逢えないか 「思議」

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • ファッションの移り変わり

ムカシの映画、ドラマなどを観ていると、ファッションや女性の化粧が古臭かったりしますが、それを楽しむのではなくて「ダサい」と片付けてしまうようなヒト、いますね。

そういうヒトは、単一性しか経験していないといいましょうか。。 たとえば我々であれば、その時代を一生懸命生きていた。その時代を一生懸命生きていたヒトのファッションがそうだったのであれば、それを「歴史」として受け入れればよいだけのハナシです。

ムカシよりも今のほうが洗練されている、だから、今のほうがエラい、という短絡的な図式に凝り固まっているわけですね。

いつの時代も斜に構えて、その時代を一生懸命生きることができないヒトほど、過去に対して批判的なので、そういうヒトはほおっておいてよいと思われます。
そういうヒトは閉じた経験の世界に生きていて、経験そのものに多重性がないのです。それは、「外」に出ていっての経験、体験がゼッタイ的に不足しているからです。


そういうヒトほどプチ刹那的であろうとしますね。内向的な世界でのプチ刹那的ですから、全く説得力がありません。


人生観、のような、思想の話

  • 人ゴミ

それにしても、繁華街の人ゴミの中にまぎれると、よくもまあこんなにたくさんのヒトが生きてるなあ、という思いを強くします。
それぞれに生活があって、それぞれに無限の「思い」があって。。
神様とやらは、その無限の「思い」の管理などゼッタイにできないでしょうね、多すぎて。

これだけ多くのヒトがいれば、その中には「生きにくい」と考えいるヒトも大勢いるのでしょう。ものすごい大多数の人間がネガティブな考えを持っているということがわかると。。 なんだかこっちもイヤになっちゃいますね。
全員が全員幸せになれるわけでもないですし。

それにしても人類というのは。。進化とテクノロジーによって餓死を減らし、病死を減らし、寿命を延ばして、それにより「何を」得ようとしたのでしょうか? 「なぜ」そういう進化を遂げようとするのでしょうか? その衝動は「どこから」湧いてくるのでしょうか? 生存本能の源泉からでしょうか? 違うと思いますが。。
岸田秀さんの言われているとおり、壊れた本能がそうさせるのでしょうか。

なぜ寿命を延ばそうとするかというと、現世にとどまればとどまるほど、楽しいという大前提があるからでしょうね。
ムカシのヒトの生活は、基本的にはずっと苦しかった。生きるために。でもたまに、息抜きとして「楽しみ」があった。と、いうことは、苦しい(ちょっとだけ楽しい)を延々と続けるために寿命を延ばしたかったのか?
それはちょっと違うでしょう。基本的に苦しい生活であればそれを延々と続けようとは思わなかったはず。その先に「何か」があるからでしょう。

あるいは、「老後」ほど楽しいはず、という幻想があったのでしょうか?
老後というのは基本的に、若いころよりも身体がきかなくなってくるのですから、若いころやろうとしていたことをいざ、定年後にやろうとしてもできずに後悔しているヒトは世の中にたくさんいるのです。

それとも、もしかしたら現在よりももっと強烈な「死んだらおしまい」という死生観が支配していたのかもしれませんね。「生きてさえいれば、いつは何か楽しいことが起る」と。
そうでなければ人間が必死になって自らの寿命を延ばそうとする理由がわからない。

西欧風にいえば「召される準備ができるまで」ということになりましょうか。ということは、ムカシのヒトの平均寿命では召される準備がまだ整っていないということでしょうかね。仕事仕事で一生終えるのではなくて、リタイヤしてしばらくの期間、召されるための準備期間を切実に欲していたのでしょうか。


でも実際のところは、ヒトビトがホントに欲しているのは、子供時代、青春時代の延長なのでしょうね。
「モラトリアム」。現代人がまさに実現しようとしているではありませんか。
寿命を延ばしてかつ、「永遠の」モラトリアムを手にいれようとしている。

死、あるいは宗教に近い話

  • 永遠に逢えないか

死ぬともう永遠に逢えないということで悲しくなるのでしょう。
ところで、「あの世」でも結局逢えないような気がするのですがどうでしょうか。

あの世というのは膨大に広くて、たとえばじいさんが死んだばあさんを追いかけて冥土に旅立ちました、と。ところが、着いたところがどこにばあさんがいるのかわからない。途方にくれるうちに、その人の日常は、ばあさんなしで形作られてゆくのではないでしょうかね。
そこで、偶然にばあさんに会えるかもしれないですが、他にココロときめくヒトがあらわれる可能性のほうが大きいような気が。。
これは寓話であって、自分の言いたいことを相当簡略化していますが、そんなものでしょう。

あの世を考えるのではなくて、「現世」のほうが亡くなったヒトには逢いやすいような気がするんですよね。これがいわゆる「亡霊」ですね。
「遭いやすい」というのは、物体としてではなくて、たとえば目を閉じればそのヒトの思い出がよみがえってくるかもしれませんし、うつらうつらしているときに枕元に立っているかもしれない。実際、夢の中ではいろいろなパターンの「ばあさん」が何度も登場することになるでしょう。

枕元に立つ、とかいうのは現世に霊が残っていれば、のハナシで、たとえばそのヒトが往生したり、次のナニモノかに生まれ変わったりしたら、その霊は消えてしまうのでしょう。

でも、死んだヒトの思い出というのは、どれだけ脳に情報がインプットされても消えないものです。それは、「焼き付き」に近いものでしょうね。

物体としてもう一度逢いたい、というのであればそれは単なるわがままでしょうが。。
たとえば目を閉じれば逢えるとか、夢を見れば逢えるとかできるのであればそれでよしとすべきでしょうね。
頻繁に逢いたいのであれば夢を見る訓練をすべきです。


ところで、おとぎバナシをぶち壊すようで恐縮ですが、やがて、その思い出がジャマになるときもくるのかもしれないのです。

これらはオカルトのハナシではなくてきわめて現実的な解釈です。

  • 「思議」

「思議」の否定という意味での「不(可)思議」、「不(可)思議」でないという意味の「思議」についてなど、考えることもありませんでした。

なぜ、否定である「不(可)思議」という言葉だけが残っているのか。。

ちょっと調べてみましょう。

抜粋・紹介

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

昔梁の武帝と達摩と会見した時に、梁の武帝はがんらい仏教に対してすこぶる篤き信仰をもっていられたので、こういう問いを出された、「自分は御寺を建てたり、坊さんをこしらえたり、坊さんを供養したり、いろいろ仏教のために力を尽くしているが、どういう功徳があるだろうか」こう尋ねたら、達摩は「無功徳」と言ったのである。がんらい仏教では、報いを考えて仕事をするということを嫌うのである。(略)
分別の世界、われらの日常の世界では、合目的的でない行為はないのである。それゆえ、こうすればああなる、ああすればこうなるというようなあんばいに、こちらから出た働きが、何かの形で、また向こうから帰ってくるということにならなくてはならぬのである。それを意識するとしても、意識しないとしても、われらの生活はそういうふうに規定せられているのである。それが分別世界の成立理由である。報償は、知性的に言えば、因果性である。これがないとわれら日常の生活は成り立たぬといってよろしい。武帝の考えも、もとよりこの範囲を出なかったのである。ところが、それを達摩は「無功徳」ということで蹴飛ばしてしまったのである。
これを表面の意味から解すると、すなわちただの分別智上の知識で見ると、無功徳生活は今日の集団的生活組織というものを根底から破壊するものと言ってよい。原因結果の世界、すなわち分別性をもった秩序体を否定するのであるから、無政府主義だと言ってもよいわけである。ある面から見ると、宗教にはそういうところがある。(略)

宗教家は、キリスト教者でも、仏教者でも、儒教者でも、道教者でも、みな子供心というところを見ている。(略)正三道人は、「自分らはみなばけものだ」と言うが、いかにもそのとおりである。このばけものには、生後数ヶ月を経ないでなりたがる傾向がある。周囲の人がそうさせるのである。しかし、とにかく、われらは一度化けて見ないと、化けない前の自分がわからぬ。化けるも悪くはない。ただ化けの化けたるゆえんに自覚のないのが、いちばん危険だ。赤児はどうしてもおとなとならざるを得ない。が、われらは何かにつけて子供らしさを慕う傾きをもっている。人間は何か太古の時代を憧れる。(略)ローレライのようなもので、ラインの河の底から、何か、魔物か、天人かわからないが、われらを呼ぶ声がする。そのような心持で、われらは分別性の現成底を離れたい、無分別の波の底に飛び込みたい気がするのである。
それだといって、ただちに魔物の呼ぶままに引かれていこうとすると、思わぬ危険にその身をさらすことになる。これは人間の生命というものを知らないゆきかたである。(略)無分別の波の中、空間性の淵の底に沈んでいってはならぬ。これが生々の意味である。おとなは子供になってはならぬ。ただただ子供の心を持たなくてはならぬ。一人前のおとなとして、理智を十分に備え、いろいろの感情も十分に備えていて、しかもそこに赤児の無功徳性・非合目的性をもたなくてはならぬ。非合目的性というよりも、没合目的性と言うほうがよいかも知れない。(略)ただ昔が恋しい、赤児の時代がよかったというようなことだけでは何もならない。理屈は十分に言わなくてはならぬ。感情は豊富でなくてはならぬ。(略)理智分別をもちながら、しかもその奥に(略)無功徳なものを、深く蔵していなくてはならぬ。
達摩が武帝の問いに対して、無功徳と言ったのも、武帝が自分の仕事に対して報償を求める、そこに分別に煩わされた純粋ならぬものがあるので、達摩はその虚を突いた次第である。武帝は(略)因果に因えられて、よいことをしようとしたのであるから、誠に結構であるが、そこに宗教的なものが見られぬ。


(略)どこかで言ったことがあるが、悟る前には善悪があるが、悟った後は善も悪もことごとくが善である。悟らない先には善も悪もという分別がある。この分別が悪いというのであるから、いずれも悪である。

宗教の最後の立場は受動性の認得であると言ってもよい。それでよく鏡の譬えの出ることがあるが、ここに一枚の鏡がある。そこで、その前に月があれば月が映る。川があれば川が映る。(略)あらゆるものが、そのままに映る。これは鏡に受動性がないというとできない。鏡がその鏡たるものをみずから働き出させると、山や山でなくなり、(略)鏡もまた鏡の本質を失うのである。鏡の鏡たるところは、その受動性にある、そのみずからのないところにある。宗教的意識の最後の立場は、このみずからの受動性に徹底して、本来の無一物を明らかにするところにある。それで宗教的信仰心を木石に譬えたりすることがよくある。(略)
宗教的立場から見る木石は、その心のない、情感のない、無意識のところを見るのではなくして、木石が我というものを立てないで、向うから来る客観的・環境的条件に相応して動く、すなわち万物が鏡に映るようなところを見ているのである。(略)
しかしただ受動性と言うと、また誤られることもあろう。(略)心はうつすだけではない、そこに一つの行為性のあることを見なくてはならぬ。単なる受動でなく、その実、受動のうちに能動がある。(略)鏡には映すというがある。物が鏡に映る、鏡は物を移す。うつるは受動性で、うつすは能動性である。(略)
鏡には、ああすべく、こうすべくと言うように、すべきはからいをもたないところに鏡そのものがある。なんらの計画性をもたないところに、鏡の受動性の本質がある。またこれを「自然法爾」の姿とも言うのである。


時間の問題であるが、なるほど、一時、二時、三時、四時というあんばいに、時なるものを切り刻んでゆくことは、誠に便利である。単に内面的時間感というもの、あるいはもっと奥へ入って、霊性的直覚または禅的時間感とでも言うべきものに、立場をとってみると、自分だけでは、それで大いによいかも知れぬが、他につうじないということは確かにある。それで禅者は実際生活の上に出て、十二時に分けられた時間の間に起臥する必要がある。その時には、禅者はこの十二時を使うというのである。趙州は、ある時、雲水に向かって、「お前たちは十二時に使われているが、わしは十二時を使っている」と言ったことがあるが、禅ではこうでなくてはならぬのである。自分で分けた時間に自分が使われているようでは、はなはだ不都合であろう。使うために分けたので、使われるためではなかったのである。

(抜粋・紹介終わり)