元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

がんばらなくていいわけがない ディファレンシャル 

本来の日記部分

郵便局にとある手続きのために行き、番号札を持って30分弱並んで、いざ窓口にいって用件を説明したら、「印鑑がないと手続きできません」と。。
接客は不快ではなかったのですが、半日、ここのシステムに関する怒りがおさまりませんでしたね。
私は、急いでいたのです。急いでいても、今日しか時間がとれないと思ったから手続きにいったのですが。。

なんで「御用聞き」みたいな要員をおいておかないのだろう?
これからは「御用聞き」復活の時代。御用聞きこそ究極のゼネラリストです。


  • ディファレンシャル(?)

歩いている途中で、何か良いフレーズなどを思いついたときに、それを書きとめておかないとすぐ忘れてしまうから、他の雑念をいれないように「そーっと」歩くわけですが、それでもけっこう忘れてしまったりします。

ということは、「書きとめておかないと忘れる」という確信があるわけで、なぜ忘れるかというと、脳には絶えず、情報が入ってくるからです。

特に、歩いていたりすると景色は刻一刻と移り変わるのですから、もし脳みそが単なる「マシン」なのだとすれば、その「動画」をすべてキャプチャしてため続けていることになります。

後から後から情報が入ってくるのであれば、はかない「フレーズの思いつき」などは、景色という「動画」の容量の前にはなすすべはありません。


ところで、自分はディファレンシャル(? このコトバで正しいかどうかはわかりませんが、このコトバがぴったりのような気もしています)を体感したいがために、ミチクサをしています。

毎日同じルートで行って帰ってくるのは、はっきりいって飽きます。
不思議ですね、毎日の日課、ルーティンワークは苦にしないのに。。 なぜ同じように行って帰ってくることが苦痛なのか。(これをもっと深く考えるのは【重要】マークかも)
だから、たとえ1ブロックであっても、「ミチクサ」をして違う景色を見ます。それだけで「飽きる」は回避することができる。
それを、おそらく20年ぐらいは、意識してやっていますね。

と、いうことは、毎日ほぼ同じルートを通勤しているヒトは、その風景はほとんど「ディファレンシャル」ではないはずです。つまり、風景は脳には「上書き保存」されるのですね。
上書き保存ということは、容量はほとんど増えない。

しかし自分は、意図的に、風景を「別名で保存」しているのです。ということは、毎日毎日別ファイルが増えて、容量は膨大になってゆきますね。
仮に脳そがハードディスクなのだとすれば、あっという間にパンクするわけですが、幸いなことに20年以上続けていてもパンクはしていません。(一時期、ヤバいなあと思ったことはありましたが。。 この日記をつけ始める直前)

古い「ファイル」で全くアクセスしなかったり(思い出さない、ということ)、新しくとも印象に残っていない風景、記憶などは、脳はどこか暗黒の「闇」の中にぽいぽいと投げ捨ててくれます。
そしてそれは、パソコンのように「よろしいですか?」という確認は、ない。脳みそ独自の判断でやってしまっています。
だから、こちらの意識に反して、忘れては困る情報も脳みその判断で「投げ捨て」てしまってコマってしまうこともあるのですが。。
逆に、忘れたいことがずっと「闇」の中に投げ捨てられずに残っていたり。

でも、その脳の機能のおかげでおおよそ、助かってはいるのですね。


前にも書いたと思うのですが、ディファレンシャル、別名で保存している効果として何があるかというと、記憶の中の風景が「多重化」してゆくのです。ここがうまく説明できないのですが。。
単層ではなく多重化することにより、自分の中で「血となり肉となり」となっているような気がするのです。

これは自分のミチクサの根源のところだと思うので、もう少しゆっくり考えてみます。

人生観、のような、思想の話

  • 癒しは卑しい。

「自分はこれぐらいしかできない」と、生活を規定するときに、なぜか「ちょっとムリする」という方向にいかない。ある意味自分を許してしまう。
これは、私だけが特殊ではないと思うのですが。。 自分は、生活の中に少しでも「ムリする」とか「背伸び」の要素をいれておかないと生きてゆけないと考えています。
ですが、どうやら他の大多数のヒトたちは、そういう面倒な要素はいれたくないらしい。「あるがまま」「なすがまま」を受け入れたいらしい。

これでは生活が「弛緩」しきってしまうのです。。「あるがまま」「なすがまま」を受け入れてしまったら永遠にかすかな不満足感から脱却できないのです。


そもそも「自分はこれぐらいしかできない」と自分で自分を規定してしまってよいのか、というハナシもありますが。。 それはゆるやかな自殺行為ではないのでしょうか?


「そのままでいいんだよ」とか「がんばらなくていいんだよ」という、ひところ流行した「あいだみつをの自分に都合の良い解釈」、この間違った「癒し」こそアヘンなのです。

誰にとっても、「がんばらなくてもいいんだよ」という考え方は、都合が良いにきまっています。(私は、すでに「気付き」があったので、ゼッタイに違う、アヤしいと思いますが)
だから、そこにつけこまれる。ヒトを「楽」に引きずり込むところにアヘン(イコール「シューキョウ」)の存在が垣間見られる。

死、あるいは宗教に近い話

  • シューキョウ団体

結局シューキョウ団体などなど、アヤしい集団にまだ期待している自分がいて、それが間違っている、ということなのです。
カレらは、資本主義社会における「営利団体」にすぎないのであって、しかも相当税制的に優遇されている。さらに、会社組織と違い、株主に対して教祖様(?)とその取り巻きの年収を公表する必要がない。
財務を「つつみ隠さず」公表するよう義務づければ、営利団体としてのシューキョウ団体の財務体質へ批判の矢がもっと向けられ、どれほどアヤしいのかということが大衆にさらされて、シューキョウというものがもっと健全な「宗教」へ戻ってゆくかもしれません。

カレらは、働いて出世するのではなく、貢いで出世するのです。そこがおおいに「現世」と異なるところ。

抜粋・紹介

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

蓮如上人御一代記聞書』に「弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を得ることなり、と云々」とある。これを逆に言うと、信心を得るということは南無阿弥陀仏の主となることである。そしてこの主になることが弥陀をたのむの義である。ふつうの考えかたで見ると、南無阿弥陀仏の主となることは、南無阿弥陀仏そのものになることでなくてはならぬ。すなわち自分と南無阿弥陀仏とが二つものであってはならぬ。二つになっておれば、どちらかが主で、他は従となるであろう。自分が南無阿弥陀仏になることは、自分が自分の主人公となることである。個己である自分を捨て、超個己の霊性に目覚めることである。そこに信が確立する。それが弥陀をたのむということであるというのは、頼まれる弥陀と頼む自分とが二つにならないで、自分が自分を頼むということでなくてはならぬ。あるいは弥陀が弥陀みずからの存在に覚醒すると言ってもよい。つまり、二つのところに成り立つ信ではなくて、一つが一つと自覚するのが信でなくてはならぬ。南無阿弥陀仏と唱えることは、それゆえに、弥陀が自分で自分に呼びかけることにほかならぬ。呼びかける「自分」は、超個的霊性で、呼びかけられる「自分」は、個己そのものである。こういうあんばいに、弥陀が自分を二分するとき、本願の成立がある。本願の成立するとき、信の決定がある。

わしが阿弥陀になるじゃない、
阿弥陀のほうからわしになる。
なむあみだぶつ。[『大乗相応の地』]
名号は阿弥陀のほうから来て才市に「あたる」と、才市は才市で変りはないが、しかし、もはやもとの才市ではない。彼は「なむあみだぶつ」である。そしてこの「なむあみだぶつ」から見ると、一面は弥陀であり、一面は才市であって、しかもまたそれ自身たることを失わぬ。「なむあみだぶつ」は霊性的直覚のまたの名である。(略)専門の哲学者になればなんとか論理の筋を立てるにきまっている。才市に言わせると、
わしのこころは、あなたのこころ、
あなたのこころが、わたしのこころ、
わしになるのが、あなたのこころ。[同上]
である。この心を知るのが「なむあみだぶつ」である。言い換えれば、「なむあみだぶつ」になると、「わしになる心」のあなたがわかるのである。


(略)山が山でないと言うと妙に聞こえるが、われらは初めから生も死もないのに、生まれて死んで、死んで生まれると言うと、かえって不思議になるのに、われらはそれに気づかないのである。そして、いつまでも生きたいとか、死にたくないとか言うのである。そこにかえって波瀾が起きたと言ってよかろう。山や河や花や何かの場合には、これを否定すると、不思議だ、非合理だと言われて、われら自身の上になると、「不生」のところに生死を見たりして、「不生」の否定をなんともなしに考えている。「不生」のうえに生死を考えることは、山を山にあらずと言ったり、花は紅にあらずと言うことと同じく、非合理だとか不都合だとか言えば、誠にそのとおりなのである。知性的判断の上に立ったり、情意的選択の裡に動いている限り、霊性的直覚にはいたり得ないのである。般若の論理は霊性の論理であるから、これを体認するには、横超の経験がなくてはならぬ。
禅はこの論理を論理の形式で取り扱わない。そこに禅の特殊性がある。すなわち生死の問題などに対してはこう言うのである。「君らのそう逃れたいという生死なるものは何処にあるのか。離れたいという緊縛は何処にあるのか。誰か君らを縛っているものがあるか。誰が君らを動かないようにしているのか」と、こういうあんばいに逆襲し来るのが禅論理の特性である。ふつうの常識がまず否定せられて、その否定がまた否定せられて、もとの肯定に還るということは、回り遠い話である。しかし、われらの意識は事実上この回り途をやらないと承知しないのである。般若の智恵、すなわち霊性的直覚そのものから見れば、初めから山は山、川は川で、そこになんらの面倒も曲折もないのである。しかし、感性的直覚から霊性的直覚にいたる途は、ここで言うようには容易なものではない。
(略)ただ人間だけが、なんで生まれたのか、なんで死なねばならないのか、あるいは死にたくないとか、生きたいとか言って、いろいろに騒ぎ立てる。動物も植物も死にたくないのであろうが、しかし死ぬる時には黙って死ぬるし、枯れる時も黙って枯れてゆく。人間のようにもがくことはしない。そのもがくことをしないところに、動物のある意味での優越性があり、人間のおよばないところがあると言える。しかしわれらは、犬にも猫にもなりたがらない。山を山と見る時に、まず山は山でないと見て、それからまた山と見るというような、まだるこしい論理を好んで行じているのである。このまだるこしさが、人間以外にはないというところに、人間の悲劇と喜劇とがある。動物にはもちろんそういうものはない。人間以上の神であるとか、あるいは天人というようなものにしても、この人間的なまだるこしさというものはない。つまり、まだるこしさ、悩み、煩いというようなことは、人間の特権だと言っていいのである。般若は、この人間の特権というものを、はっきりと認めている。そこに霊性的生活の世界が開けて行くのである。

(略)われらの存在事実というものは、この矛盾で構成されているのである。存在しているということが、霊性的の上では、矛盾の自己同一ということになるのである。論理的矛盾そのことが存在なのである。(略)矛盾ということにしておく限りは、人間はそれで生きてゆくわけにはゆかない。矛盾に生きてゆけないということは、矛盾と気がついたら、それを解消しないと、生きてゆけないということである。矛盾と気のつかない限りは、ちょうど猫が鼠を捕え、犬が知らない人にワンワンと吠えると同じだ。しかし、人間がワンと言って、そうしてこの「ワン」はどういうことなのかと考え出したら、むやみにワンワンと言えなくなってしまう。「ワン」ということを、そのままで「ワン」と済ませば、そこに肯定も否定もないが、「何故」とか「なんのために」とかいうようなことを考え出せば、ワンをワンとして、そのままで出てゆくわけにゆかなくなる。「ワン」が真直ぐに出ない。そこに踏み止まらなければならない。つまりそれが否定である。(略)否定されたと気がつくと、もう一歩も動けなくなる。禅の修業というものは、つまり自由に動いていたものを、まず動けなくさせる修行だと言ってよろしい、すなわち否定の修行である。あるいはこう言ったほうがよいかも知れない、曰く、まず否定に撞着したから禅に入ったのである。禅は否定の修業だというよりも、まず否定があったので、それから禅を修行することになったというほうがわかりやすいであろう。否定ということを感じ得るのが人間である。

(抜粋・紹介終わり)