元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

どちらが信心深いかの争い2

人生観、のような、思想の話

世の中何が変わったかって、ほとんどテクノロジー「だけ」じゃないのでしょうか。
人間の欲望の具現化のためのテクノロジー

最初は、最低限の衣食住のため。次は、快適な衣食住のため。その次は、権利を保障された個々人の豊かな生活のために。

特に最近は、全体ではなく個々人の要求(イコール欲望)を吸い上げる機能が、ますます強力になってきていると感じます。

死、あるいは宗教に近い話

  • 「どちらが信心深いか」って? その2

仏教についても、「仏教学」「宗教学」とやらにどれだけ精通しているか、とか、どれほど滝に打たれたか、座禅したか、とかそういう優劣競争に終始したくはない。

でもそれはほぼ言い訳にすぎず、ある程度、いや、相当な精通は必要なわけです。それは十分承知はしているのですが。。

私の存在は学者でも坊さんでもない。(「毛坊主志願」)自分の仕事、それと「生きる」のに精一杯、というのは果たして言い訳か否か?
その答えは、いずれわかってくるのでしょうが。。 生きるのに精一杯という状況を脱したいからこそ仏教について考えているわけで。


自分は、宗教、仏教に市井からアプローチする新しい方法論を探ろうとしているのだと思います。
仏教、と口走ると、もはやそれはネタであって「出家すんの?」とか「座禅でしょ?」「丸刈り?」という返しがくるのが、もう正直うんざりしています。

それよりも何よりも、まず、仏教について正確に知ること。そして自分がよりよく生きるためのヒントをそこから見つけること。
まずは、とっかかりは、実用面から仏教を考えるわけです。市井からのアプローチは。

いきなり包括的、集中的に学んだり修行したりなどは、できません。


そこで、河合隼雄氏が書いていた「ある程度カネ持ちになると仏教について語り出すヒトが多くなる」という話が、ヒントになってきます。

これは、考えうる仏教に対してのアプローチのひとつなわけですね。
それを応用して、市井から、たとえカネ持ちでなくとも、一見してわかりやすい新興宗教に引き込まれることなく、普遍的で歴史のある仏教のほうへいけないものか。

日本人は、あらためて「仏教」にアプローチするのは気恥ずかしいんでしょうね。すでに生活にうっすら存在するものですし。
新興宗教、「教祖様」がいるような団体、「スピリチュアル」「ヒーリング」の類へ接近するのは、とてもわかりやすいし、容易い。

実際、接近してみると「がーん」とくることもあるのでしょう。逃避のため、「あなたは間違ってない」といわれたいががめに接近するのですから、ココロも完全に無防備です。10何年前のオウム信者のようになってしまいます。


その、仏教を語りだすカネ持ちさんというのは、相当な達成感を経験するのだと思います。
それはつまり、「もう死んでもいいかも?」と思わせるぐらいの達成感なのでしょう。そこでカレは、一種の「死生観」を獲得するわけですね。

そこまで辿り着いたときに、ふと、自分の周りには仏教があったということを思い出す。。

そういうヒトには、新興宗教の「ゲーム」はもう耐えられないのでしょう。強く願い、かつその結果として「カネ」を多く納めれば納めるほど、その「サークル」における位が上がってゆく。
「位が上がる」ことはもう求めていないわけですね。そういうヒトにとってはカネを貢いで位を上げるのはカンタンなことでしょう。それどころか、もううんざりしているのかもしれない。
インテリジェンスがない、というか、それでは上のレベルの知的欲求が満たされないのでしょう。

新しい「サークル」においてもまだ支配欲を満たしたい、上に行きたいという思いが勝つヒトは、まだ真の「カネ持ちさん」にはなっていないのです。
そういう「小金持ちさん」はその「サークル」において格好の餌食になってゆくのでしょう。


仏教はもっと、難しいものです。いってみれば、文系における究極のインテリジェンスかもしれないのです。
なぜなら、仏教には、特に仏教の「思想」には、ある種の哲学が内包されているからです。


前にも書いたかもしれませんが、ぽっと出の成金ではなく、地盤のしっかりしたカネ持ちさんになるということは、そこに到達するまでに、市井で十分の「修行」を積んでいる、ということなのでしょう。
その「修行」というのは、現代社会で、寺の坊さんが庇護された中で行う修行とは、もはや質が違うのでしょうね。

我々は、結果的にカネ持ちさんになれるかどうかはともかく、その「修行」をなぞることはできそうです。
そして我々は本を読むことができるのです。掃除をすることもできる、市井を生きているだけでいろいろなことができます。


そして何より我々には「思想の自由」があります。
思想を放棄しないこと。思想するアタマを持つこと。(何ごとも「別にいーじゃん今が楽しければ」に逃げないこと)


とにかく、ゆとり教育とかそういうので現代人の「思想」は壊滅しつつありますから。。
まずそれを「トレンド」として取り戻す必要がありますね。

自分について

  • 書き出し掻き出し

8月に入ってからのこの状態、すなわち、それ以前よりケタ違いに書き出し(掻き出し?)の量が増えているわけですが、これらは、自分の表層をとっぱらったところの、潜在意識に近いところから出てきているのか、あるいはまだまだ表層の思想にすぎないのか。。

もっともっと掻き出してゆけば、自分の「根源的な闇」にまで辿り着けるのかどうか?

まだ答えは出ませんが、この量は異常なような気もしています。日記を始めて1年が経過しました。1年で、何かのスイッチが入ったのか。。 あるいはこれは、自分の生活が全く落ち着かない(外的要因)ことの影響なのか。。

ちょっと気になるのは、mixiにはグチとか、カタチにならなそうな思いとか雑談とかネタとか、いつも平行して書いていたのですが、最近そちらがめっきり減ってしまった、ということです。
「もやもやっと」したものが減って、mixiにワンクッション置く必要がなくなったんでしょうかね。