元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

どちらが信心深いかの争い 過剰な「安かろう悪かろう」2

再録・継続

  • 下町(20070317)

マスコミが作り上げた下町という虚構は、ゼッタイに間違っているというのは自明です。「人情が残る路地裏」とか。。 ホントウの下町にはそんなものは残りにくい。

下町というのは、一般庶民が暮らす街なのです。つまり、流行に左右され、変わってゆく街です。日本的風情を意図的に残して人を呼び込もうとした時点でもうそれは観光地です。

下町で評価すべきは、外面、インフラではなくて「人情」「情緒」そのもの(のみ)でしょう。それは昔の庶民の「叡智」であり、お上へのカウンターとなりうる「武器」だったはずです。下町という「舞台」がそういった「人情」「情緒」といったものを脈々と受け継いでいっているのであれば、そこは評価できるのです。

「下町」っぽく装飾をつけてゆく時点で下町さしさが失われていくことに気付かないのでしょうか。気付かないのでしょうね。。

小林信彦氏が山の手/下町にこだわっているのもわかる気がするのです。自分は田舎育ちの門外漢ですが。。

港区の中の「山の手の中の下町」(「の」ばっかり)について、語り部となれるのは、門外漢で外部からの目線で客観視でき、かつ港区を愛でる私が適任ではないか、と思いますけどね。

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 過剰な「安かろう悪かろう」2

高いカネを払うこと自体が目的化しないように、と常に考えてきたような気がします。

と、書き出したはいいものの。。

でも胸を張っていえるのは、それを考えるようになったのは、おカネにある程度余裕ができてからなんでしょうね。

ビンボーな頃は、自分が数万の買い物をするだけでカタルシスを感じることができるわけです。

CASINO DRIVE

CASINO DRIVE

「今夜は二人だけでお祝いさ 夜景の見えるホテルのスイートルーム いつもの罪ほろぼしさ 大した事もしてやれないけど せめてバラの香りと ワインをグラスに注いで とびきり素敵に Oh Happiness
シケた暮らしも 今は忘れてさ 明日の朝 目覚めの時までは いつもの罪ほろぼしさ 一年でたった一度だけでも」

今でもこの歌詞は覚えています。
日本の旧き良き時代のロックンローラーを体現していた彼らの、唄含めたバタクサさは。。
よかったですね。


ところで。。
結局言いたいことは「見栄を張らない」の一言に尽きる。。のかな?

でも、それがたとえ900円の定食だったとしても、値段に見合わない品質だった、と感じたときはとても不愉快です。しばらく余韻が残るほどの不愉快さです。

その不愉快の度合いは、もしかしたら高い安いはあまり関係ないのかもしれません。

その不愉快さを、愚直に、無くそう無くそうとしているわけです。


「高いカネを払うこと自体が目的化している」状態、となると、やはり「ブランド物」の話になっていかざるを得ないのでしょうね。。

カンタンな話です。「一生ものの時計です」といわれたって、100万は高いでしょう?

同じ質のものがノーブランドだったら20万で売っているかもしれない。
その差額の80万が、資本主義社会を象徴しているのです。


この例えは直接的すぎますね。

身体に良い(といわれている)もの、たとえば野菜とか、あるいは健康になる(と宣伝されている)ものの価値とは。
「健康」というのもブランドでしょう。


「化粧品は安いと売れない」というのは、何度も何度も聞きました。たかが薬品と栄養分がちょこっと入っている水なのですが。。


話がノってきませんね。。

結論としては、おカネに余裕が出てきても「質素」であり続けたいということ。
そして、質素な生活を「ケチ」を思われないためにはどうすべきか、ということ。

それは、「目の肥えた消費者」になるということです。「買わせる」側にはゼッタイに騙されないぞ、と。。
年収によって、こういうライフスタイルをする、というある程度の「型」のようなものが、この国では決まっています。
(ほとんどのヒトは気付いていないようです)

それが間違っているのです。年収が上のヒトが質素な暮らしをしてカネを貯め込んでも、年収が少ないヒトが不相応な生活をして破産寸前に追い込まれたっていいじゃないですか。
その自由がなければ資本主義の奴隷ではないですか。

死、あるいは宗教に近い話

  • 「どちらが信心深いか」って?

自分が新興宗教に対して強烈に違和感を感じるもうひとつの理由がありました。ふと、思い出しました。
だんだんと、どちらが(誰が)もっとも信心深いか、の争いになってくる。それが諍いを生む。そして、教祖様(? という言い方がよいのかはわかりません)は、あえてそれをとがめようとしない。なぜかそういうときだけは自由競争にまかせる。

結局はそれは、いかにカネをつぎこんだか、の順番になってきます。
なぜなら、それこそ資本主義的決着だからです。そうならざるを得ない。非常にわかりやすいといえば、わかりやすい。

「教祖様」はなぜ放っておくかというと、放っておけばおくほどカネを産むからですね。
本当は、教祖様の上にさらに、「資本主義」という神がいるわけです。
皆があがめたてまつる「教祖様」自体が拝金主義なわけですから。


新興宗教に限らず、どれほど自分が帰依しているかを競うようになってくるサークルというのは、資本主義が純化した世界を先鋭的にあらわしている、ということになるでしょう。(【重要】マーク)

であれば、いきすぎた資本主義に疲れているヒト(「スローライフ」「ロハス」でしたか)はそういうサークルには入るはずはないのですが。。 おかしいですね?

私は高度資本主義社会肯定派ですが、そういうサークルには死ぬまで入りたくないものです。。
高度資本主義社会と、資本主義が純化したサークルというのは、全くことなるものでしょうね。
複雑系と単純系、とでも例えればわかりやすいでしょう。私は、複雑なほうが好きです。「混沌」ということでしょうか。


ムカシは、アイドルやロックバンドなどの「教祖様」に対して、若かりし我々は同じようなサークルをつくり、同じような行動をしていました。どれだけ自分がファンであるかをカネ、あるいは、カネというほど直接的ではないにせよ、物量で決着をつけてきました。
我々は、資本主義社会の申し子ですから。。そういう決着しかつけられないのですね。

新興宗教、あるいはそれに類する「サークル」というのは、現代の日本人のそういう性質をたくみに利用している、ということでしょう。

少なくとも自分が子供の頃から、仏教、神道に関して、「どちらが信心深いか」という争いなどどこにもなかった。


ここまではまだキレイゴトでして、ホントは、「教祖様」に対する帰依度合いを量る尺度がもうひとつあります。
それは、いかに従順になるか、ということ。いかに盲目的になるか、ということ。
「教祖様」が「アイツを殺せ」といったら殺しかねません、とカンタンに言ってのけるヒトたちがいます。死ぬまでお近づきにはなりたくありませんね。だって、そのサークルにいるだけで殺される可能性が高まりますからね。要は「教祖様」の気分次第ですからね。


その従順さ、盲目さ(盲目的になっている自分にどれほど酔えるか否か)により、過去に、どれだけの悲劇が生まれていることか。。 ニュースになる、ならないは問題ではありません。もちろんおカネもからんできます。

それをもう、ほとんどのヒトたちはおぼえていないのだろうか?


会社に従順になるあまりに自殺する、というのも似ているような気がしてきましたね。(次の書き出しの課題にしましょう)
会社の不祥事で、上司が部下に対して責任をなすりつける際、「わかってるな?」と言うそうです。
あるときはそれは「死ね」を意味している、という話も聞きます。
それは、本当なのでしょうか? それは、殺人ですよね。

会社というのも、そこまでやれるんですね。一部の「教祖様」が存在する会社は、アブナいですね。。


それともうひとつ、大きな命題として、その従順さ、盲目さが日本を戦争に導いた(のかどうか?)という話にもつながってきますが。。
今はそれは、あまりに大きな話なので、そこに行き着くことはできないようです。

抜粋・紹介

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

「元来自由という文字は東洋思想の特産物で西洋的考え方にはないのである。(略)フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、そのころの学者たちは、いろいろと古典をさがした末、仏教の語である自由を持って来て、それにあてはめた。それが源となって、今では自由をフリーダムやリバティに該当するものときめてしまった。
西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放させるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋的の自由の義と大いに相違する。(略)自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由といいうのである。」
「自由の本質とは何か。これをきわめて卑近な例でいえば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。これを必然性だといい、そうならなくてはならぬのだというのが、普通の人々および科学者などの考え方だろうが、これは、物の有限性、あるいはこれをいわゆる客観的などという観点から見て、そういうので、その物自体、すなわちその本性なるものから観ると、その自由性で自主的にそうなるので、何も他から牽制を受けることはないのである。これを天上天下唯我独尊ともいうが、松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束のなきところを、自分が主人となって、働くのであるから、これが自由である。
よく自由と放逸とを混同する。放逸とは自制ができぬので、自由自主とはその正反対になる。全くの奴隷性である。(略)」
「「阿弥陀さまよ、どうぞ自分の煩悩を皆、とってくださるな、これがないと、あなたのありがたさが、わかりませぬ」と、真宗妙好人はいうのである。煩悩即菩薩の片影をここに認めうるではないか。(略)仏は涅槃に入るのをやめて、菩薩のままこの娑婆界に生死するという。涅槃に入ったり、天界に生まれたりしては、人間の自由はない。人間は煩悩の責められる娑婆にながらえて、「不自由」のなかに、自由自立のはたらきをしたいのだ。ここに人間の価値がある。人間は積極的肯定の上に卓っている存在である。」