元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

花火、 死んじゃったら終わり

本来の日記部分

神宮花火大会の混雑を回避。の予定が、モロに見物客の帰りのラッシュにハマってしまいました。。
こちらは逆コースなので非常に不快感。

「祭り」に対する違和感の延長で、花火大会というのは好きではありません。ヒトは花火に、何を求めているのだろう? あれも祭りの一種でしょうが。。

「キレイだからに決まってんじゃん」という即・切り返しをしてくるようなヒト、そこから先へ進めないヒトとは、今現在話は合いませんので。。

アレはホントに、比喩としての「花火」の意味もあるわけですね。非日常のイベントとして「花火」をぶちあげる。非日常に飢えている大衆はそれに扇動され、ついてくる、と。


でも、このクソ暑いときに、祭り気分で浴衣に身を包んだイイオトナたちが、ヒトの迷惑考えずに道路を占拠してアスファルトに座り込んで、ビール空けてつまみを散らかして、あえて「もっとも低いところ」(浮浪者の位置)から口をあんぐり空けて花火を見上げて、いちいち上がるごとに「おー」と歓声を上げて、花火についてのテレビから仕入れただけの上っ面だけのウンチクを語って。。

その非日常には何か意味があるのだろうか? ホントに、それを年に一度の楽しみとして待ち焦がれているのだろうか?


「楽しければいーじゃん」の思考から、対極にいたいわけですね、自分は。。

再録・継続

  • 雑感:シンガーソングライター

素晴らしい歌唱力を持った歌手が、その唄をその声で聴きたい、という動機で曲をプレゼントしてもらえる、というのは歌手冥利に尽きるのでしょうね。

真の意味での「歌手」というのは極論すれば作詞作曲をする必要などないわけです。それよりも「美声」を維持するための努力をすべきなんですね。


「こうありたい」または反面教師

  • 国会議員は国益を追求すべし

糸山英太郎さんの「国会議員は国益を追求すべし」というのは至極まっとうな、「すっと」入ってくる正論ですね。
私は正論が大好きです。なぜなら、それは正しいからです。
正論だけでは生きてゆけない、などというのはコドモの頃から知っています。それでも価値相対化に逃げる輩に比べたら正論をぶちまけるヒトのほうがよっぽどマシです。

国会議員というのは、世襲をのぞいて、県会議員クラスからしか立候補できない仕組みにしてほしいですね。あるいは元国会議員のリベンジか。

ここ数年ですよね、なんとなく「ちっちゃいなあ。。(器が小さそうだなあ、の意)」というヒトが続々と国会議員になっているのは。

日本のローカルの、つまり地元区の「ちっちゃい」益を追求したいのだったら、地方議会議員から始めるべし、というのも至極まっとうな考え方。いきなり国会、というのは間違いなく、虚栄心と、それからその後の展開をにらんで、でしょう。

その、人生戦略を否定はしませんが、とにかく正論のとおり国益を上げて税金ドロボーしないでほしいものです。

国会議員1年生の「研修期間」に私の税金を投入してほしくはないですね。即戦力を投入していただきたい。

死、あるいは宗教に近い話

  • 死んじゃったら終わり

ほとんどのヒトが辿るのと同様、日本人が思想すればいきつくところは仏教なのだと思います。

仏教、つまり「死」ですね。
誰かが書いていましたが、日本の「やおよろずの神」の思想には「死」の臭いはしないような気がする。日本で「死」の思想を引き受けているのは仏教です。
何せ「葬式仏教」ですから。死は、戦後、資本主義社会での坊主の専売特許ですよね。

「死」といえば、仏さんになるとか極楽浄土にいけるとか。。それは、前にも書いたように、現世で満足の生活を送れ、飛ぶ鳥跡を濁さず、迷惑かけることなく往生することだと思うのですが。。


私なりにふたつ補足すると、
まず、満足の生活を送れるかどうかの尺度は、自分で決めるということ。つまり、あれやりたいこれやりたいいつまでやりたい、という目標設定に具体性があって、それに対して死ぬ間際に評価をするということ。
もちろん、100点じゃなくてもいいじゃないですか。「及第点」であれば、それでいい。


次に、往生できなければどうなるか、ということですが、そのまま浄土にとどまることができずに、輪廻の中にふたたび組み込まれるという定説です。成仏、というのはすなわち、輪廻転生のサイクルから離れて、極楽浄土にとどまれるということです。

「死んじゃったら終わり」っていうのは実は正しい。
でも目的は同じ。つまり、理由が「成仏するため」であっても、「死んじゃったら終わりだから」であっても、現世を頑張って満足のいくように生きよう、と考えるところは完全に同じはずなのです。


ただ、世の中には、来世に期待しつつ自殺するヒトがいますね。あるいは、現世に無念を残しつつ亡くなる方も、境遇としては似ています。
そういう方々は、積極的に「成仏」を選ばないということになりましょうが、現世で「きっちり」もろもろのケジメをつけておかないと、来世はあまり期待できませんよ、という戒めが厳としてあります。

でもこれは、要はバクチですね。飛び込んでみないとわからないのですから。


と、いうことは、現世で頑張ってある程度の満足を残しつつ、さらに成仏を選択せずに輪廻転生でさらに素晴らしい人生があることを確信し、それに賭けてみる、という選択もあるのでしょう。
このへんは素人ですので、仏教に詳しい方に聞いてみたいものです。

  • 菩薩?

一般的に「菩薩のようなヒト」と言われているのが、単に「優しい、ひたすら優しい」の形容にすぎないのだとすれば、あまり納得はいきません。
なぜなら、菩薩とは本来、現世において成仏できる可能性がきわめて高いヒト、という意味でしょう。

  • 仏教に興味を持つトリガ

以前読んだ本の中で河合隼雄氏が述べていたところによれば、金銭的に成功をおさめたヒトほど仏教っぽいことを語るようになる、という話でした。
と、いうことは、金銭的に成功をおさめていない自分が仏教に興味を持ち出す(いや、仏教に興味がある、ということを対外的に公言し始めた、ということ)ということは。。


これはまさに、「家は4畳半のアパートなのに外車を乗り回す(アパートよりも駐車場代のほうが高い)」状態なのでしょうか。

これは、じゃあ金銭的に成功をおさめて「いない」人間はきわめて仏教ではなく新興宗教に走りやすい、という話につながります。

つまり、現世の欲望を肯定する宗教、今の不満足感や悩みを抱えている自分を肯定してくれる宗教、というものに走りやすい。

大金持ちは、そんな宗教に走る必要がないわけですね。
ですから、仏教というのは位置づけとしては、中沢新一氏が言っているように、「メタ宗教」というか、宗教全体を統一する真理を持つ(可能性がある)宗教である、というのもうなずけます。

私が仏教を「お気に入り」なのはそのへんなのだと思いますね。

そして、仏教は在家に対しても門戸は開かれている。
むしろ「毛坊主」のほうが悟りは深いのではないか、とも思わせる。
最初に述べた、金銭的に成功をおさめて仏教っぽいことを語り始める、というのは、まさに「毛坊主」志願ということでしょうね。

坊主が出家して行うべき修行と、全く別の方法論だが同じベクトルで、在家で、この高度資本主義社会を生き抜く中でやりとげてしまったという。。


何度も引用していますが、仏教というのはもともと「良家の子女」への対機説法だったわけですね。

キリスト教のようにまず「〜してはいけない」という戒めから入る必要がなかった。

これはきわめて、21世紀的です。




宗教は調子に乗ると没落する、のミニ版を我々は目撃しているのです。