「何か悪いかよ」
本来の日記部分
「書き出し」が嵐のように「来ている」のですが、お盆ということもありますし、その嵐がひと段落したら、日記もしばらく休みます。(たぶん)
書き出しの時間と、栄養をとるという意味での読書の時間を、きっちり分けたいので。。
話はゼンゼン変わりますが、
やらねばならないこと、は、その総量を減らす努力をするのではなく、スピーディーにこなす努力と工夫をするべきです。
減らすのは単なる逃げですし、誰かがその尻拭いをしなければならない。
そして、やらねばならないことをなんとかして減らそう、とする他人の行動は、傍目からみると醜いものです。
- 夢
何年も会っていない中・高時代の友人を見舞いにわざわざ田舎へ。
見舞いに行く必要がないぐらい、軽い怪我(?)
そして数日後、私はなぜか、また新幹線で田舎へ行き、その病室へいきました。何か、その友人に話すことがあったのです。
ですが、その友人は退院しており、別なヒトが入院していた(声が聞こえた)ので、その病室には入りませんでした。
再録・継続
- 継続というのはなぜ難しいのか(20070308)
継続というのはそれほど難しいものではないと思うんですよ。自分は。慣れているので。
でも、継続することが難しいという話を聞きます。
続けていると、途中で誘惑が入るから、とか人はいいますが、ホントかよ、と思いますね。そもそもそんなにハデな華々しい生活はしていないでしょう。
人の生活はほぼルーティンワークの繰り返しですよね。そこにひとつ新しいエッセンスを機械的に埋め込んで、続けてゆけばよいだけの話です。
朝起きて人は歯磨きをする。(可能性が極めて高い)<=「しない人間もいる!」といったような脱力させる反論を防ぐため
なぜなら、その大きな理由は口臭が気になるからでしょう。つまり、「公」に対するエチケット、といえば聞こえはよいですが、要は他人に嫌われたくないのです。
そういった、日課としてやらないと人間関係や生活を営んでゆく上で不都合である、という動機付けを埋め込めれば。。
本来は、日課として続けると楽しい、という動機であればベストなのでしょうが、そもそも「続けなきゃ」という作業、行動が出てきた時点でそれは楽しくないことなのでしょう。
ですから、ゲーム要素を取り入れるというのは選択肢のひとつかと思います。行動を数値化して、その上昇(あるいは下降)を楽しむ。それをモチベーションにする。
スポーツの継続はそれが用いられていますよね。血糖値だの血圧だのそういう値を正常値に戻す、あるいは、他人より良い値になることがモチベーションとなる、。
ダイエットで、「何を食べてもいいけどやせられる」っていう話がありますけど、あれは、何らかの薬を継続して飲んだりするのでしょうけど、その薬を飲むことの継続すらできないんでしょうね。
「努力しなくてもいいんだよ」と言われているのに、「継続」という努力をまずできないという。。
「何を食べてもいいけどやせられる」っていううたい文句が成立するのは、「食べる」という行為が快楽なのだという共通認識があるのだと思います。
「食べる」という行為、の中でも、カロリーの高い食事を食べ続けるという快楽をやめられないと考えている人(特に女性)が多いということなのでしょう。
まず、なぜ自分はやめられないのか?(「やめられない」と考えているのか?) から考えることでしょうね。
やっと話が戻ってきました。これは、なぜ自分は「続けることが難しい」と最初から考えてしまうのか、という話と似ています。
そこでにじみ出てくる「どうせ自分は。。」という自堕落的なカタルシス。。
それに対して、健全なモチベーションが勝ってくればよいのでしょうね。「人としてどうか」を判断基準にする、というか。
それにしても、ホントに豊かな世界であるがゆえの悩みですね。。 豊かであることに埋没しすぎると豊かでない国の人たちよりも不幸になってゆきます。もったいない。。
(再録おわり)
死、あるいは宗教に近い話
- 坊主
仏教に興味を持った理由のひとつは、坊さんに対する不信感にあります。
自分は、あの「坊主」たちの寺に死んでからずっと入らなければならないのか? 尊敬すらできないヤツらと永遠に過ごすのか? と。。
死後の物理的配置はまた考えるにしても、死ぬまでは無宗教を気取って、死んでからいきなり浄土真宗の葬式やって、その寺に入るのもなあ。。 と。
かといってキリスト教でもなかろうし。。
でもとにかく、あの「坊主たち」はチガうだろう、と。(一部の)彼らは仏教に対して真摯に向き合っているのでしょうか?
制度に守られてぬくぬくと生きている。。宗教法人すべてにいえることでしょう。
わかりやすくいえば「企業努力」をまったくしていないのですね。
表現を変えれば、宗教をDIYして何が悪いかよ、ということになりますかね。(また「DIY」。。)
弔い方法を自分で決めてもいいのではないですか。
わけのわからないお経を唱えられるよりは。。
在家で、悟りなり、そういった「覚醒」できる手段はあるはずです。ただし、私のように「死」を間近に見てきた人間に限られるとは思います。宗教とは「死」とどう折り合いをつけるか、の1点に絞られる、といっても過言ではないのですから。
「坊主」は「死」と向き合っているのでしょうか?
- 本末転倒
カネ持ちになると仏教に傾倒するヒトが増えるといいます。
であるならば、カネ持ちにならない前に仏教に傾倒してしまえ、と。
そういう「狙い」といったらいいのか。。ウケ狙いというか、そういうのも、あるかもしれませんね。
ムカシ、カネもないのに港区に移住して「生活偏差値」をムリやり上げたときみたいに。
自分について
- 「何か悪いかよ」シリーズ
ヒトは、もっともっと内省的になっていいと思うのです。
ヒトは、もっともっと他人との付き合いを薄くしていいと思うのです。それでもどうせ付き合わなければならないわけですし。。
内省的になれば外に出る機会も減るでしょうし、結果、おカネもあまり使わないでしょうし。。(一人旅が増えたりして)
それが、「何か悪いかよ」ですね。
内省的になってゆくことと利己主義とは全く違う概念です。利己主義はそれなりに社交的なヒトにこそ宿るものです。自分を見つけなおそうという意志をもった人間は、「オレがオレが」の精神にはなりにくいと考えます。
内省的なヒトが「世間知らず」でしょうか? それは違いますよね。
さっきも書いたとおり、内省的だろうがなんだろうが、この現代社会ではある一定のヒト付き合いは続けてゆかなければなりません。「世間知らず」もけっこう社交的なヒトの中に多くありませんか?
もちろん、「付き合いが悪いヤツ」にはなります。だから、その評価に対して「何か悪いかよ」と言いたいのです。
逆に、どんどん余計な人間関係が淘汰されていって、プラスに作用するのではないか、と。
確かに、世の中の「荒波」は避けるようになるのでしょうけど、それも「何か悪いかよ」ですね。「荒波」を常にかぶりまくる必要は全くないのです。
どうも最近、無用な「荒波」が多すぎるような気がしてなりません。
まァこれは、オトナの話でして、コドモは、コドモの頃から内省的になってはいけないような気がします。
抜粋・紹介
- 作者: 河合隼雄,村上春樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1996/12/05
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日本人の場合は、もう泣いて不満を言うばっかりの人がいるんです。なぜわたしだけがこんな不幸なのか、と言っていてね。結局自分で乗り越えるしかない、というふうになかなかならないのです。だって、責任はみんなにあるわけだから。「わたしの不幸をなんとかしてちょうだい」という格好になるから、なかなか治りにくいのですね。」
「村上 日本の人生相談の回答は、「ウン、ウン」とうなずいてあげるか、それとも叱ってやるかどっちかなんですね。あまりロジカルに、これはこうで、これはこうだから、こうしなさいというのは、相談者自身あまり求めていないんでしょうか。
河合 そうですね。ロジカルな答えを書くと、「人情がわかっていない」「わからないからそう簡単なことが言えるんだ」ということになる。」
「村上 (略)ある意味では「物語」というもの(略)が僕らのまわりで―つまりこの高度資本主義社会の中で―あまりに専門化し、複雑化しすぎてしまったのかもしれない。ソフィスティケートされすぎてしまっていたのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。(略)
河合 (略)村上さんが(略)言われているところは大賛成です。(略)「稚拙」というよりは「素朴」と言った方がいいのでしょうか。
「複雑さ」「専門性(つまり難解さ)」「ソフィスティケート」の程度を、評価の基準とする、という誤りを現代人は犯しているのだと思います。(略)」
「河合 ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。井戸掘りは大変なことです。だから、べつにしなくてもいいのじゃないかと思ったりするんですよ。(略)
自分は不幸だ不幸だと嘆いて、人に迷惑をかけるぐらいだったら、離婚するのもひとつの方法ではないかと思います。
村上 何度も結婚する人がいますよね、三回も四回も。
河合 そういうのは大抵、井戸掘りを拒否しているんですね。井戸を掘るのはしんどいから、掘らないであちこち別の人を探しているけれど、結局、同じような人を相手にしていますよ。
(略)昔の夫婦というのは、ただいろいろのことを協力してやって、それが終わって死んでいって、それはそれでめでたしだったんですね。いまは協力だけではなくて、理解したいということになってきている。理解しようと思ったら、井戸掘りするしかしょうがないですね。
村上 ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』を書くときにふとイメージがあったのは、やはり漱石の『門』の夫婦ですね。(略)彼は結局、仏門に行きますね。
河合 仏門に行くんだけど、帰ってくるでしょう。夫婦のことは、漱石が書いているようにふつうの意味の仏門なんか通ったって、わからないんですよ。やっぱり「井戸掘り」しなくてはいかんのですね。」
「村上 ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは(あるいは病んでいることは)人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。ただし人が真剣に何かを表現しようと思うとき、「欠落はあって当然で、これでいいんだ」とは思わないものです。それをなんとか埋めていこうとする。その行為に結果的な客観性がある場合には、それは芸術になることもある。そういうことです。」