宗教、一神教 自分で勝手に水に流す 「ないものねだり」の無間地獄
本来の日記部分
さっき思いついたフレーズなんですが、「自分で勝手に水に流す」
自分の愚行、悪態を自分で勝手に水に流してしまうヒトが増えました。
私は、ほとんど口には出しませんが、ヒトから受けた仕打ちは克明におぼえています。勝手に水に流されてたまるか、と思っています。
そして、誰もが自分の愚行や悪態を勝手に水に流そうとする趨勢の中で、とにかく「おぼえている」ことはこれからの時代、もっともっと大事になってくると思います。
今、この私の意見に賛同しかねる方も、これから日本がもっと、良くない方向に向かってゆくならば、いずれは賛同することになると思います。
ただ、ヒトから受けたヒドい仕打ちだけでなく、ヒトから受けた親切も同じように、克明におぼえておかなければならないのです。
再録・継続
- うさんくさくない環境問題(20070306)
【重要】マークなことを思いついたような気がするのですが。。
ずいぶん前に、自分は連帯を好まないくせに仲間が欲しい、とか、仲間がほしいといってもどのような仲間のイメージなのかわかってないとか、自己批判していたのですが。。
まず、同世代間連帯を望んでいるのです。同じ時代を生きてきた人たち、というか、もっと俗っぽくいえば同じテレビの洗礼を受け、同じ音楽を聴いてきた人たちですね。
(略)
その中でも、話が合いそうな、というか。。 同じ時代を生きてきたからこそ話が合う可能性が高くなる、というのはあると思うのです。
で、「うさんくさくない環境問題に行き着ける人」というキーワードを思いつきました。
我々はもう、ハコモノは充足している世代なのです。我々世代が「民度」を上げてゆくための手段はもう、物質的に豊かな生活ではないのです。なぜならばそれはデフォルトで用意されているからです。
そこで、「環境問題」がでてきます。この言葉自体がウサンくさいので。。 範囲を地球とか、世界とかに拡げずに、まず身近なところから、と考えることができる人が民度が高いといえましょう。
(略)
それと、「新しい金の使い道」を描ける人です。
(略)
仮に大金持ちになったら。。 というお題を与えられたときに、浜田省吾よろしく「ベンツにプール付マンション」はちょっと古すぎます。でも、実際金を与えられると、こうなってしまう。。 それはおそらく我々の世代の大多数もそうです。
そうならない人。つまり、やりたいこと(これはつまり「善道」です)をやるために、生活を維持するためにお金が必要、と自然に考えることができる人。
「ベンツにプール付マンション」はハコモノの延長なのです。こっちにいってしまう人たちはまだ豊かな生活イコールハコモノ、という価値観から脱却できていない。
ボランティア、という言葉にホントは近いのですが、この言葉もウサンくさくなりすぎているので、「善道」という言葉がふさわしいような気がします。
それと、「やりたいこと」が自然に善道に向かう人ですね。「やりたいこと」と聞かれて旅行とか、自分のエゴを満たす行動を即答するうちはダメなんでしょう。
私も、まだまだです。その域を超えたいと思いますし、そういう人間が増えれば日本は変わりますよ。
こういうことに、気付き始めている同世代が、たくさんいるはずなのです。その確信はあります。ですからそういう方々(すでに実績を上げられている方々)とどのようにゆるやかにつながってゆけるか、と。
皆で「ウサンくさく」ならずに。
「自然に」というのが大事だと思うんですよね。他人や世間に対するポーズとか、ビジネスを絡めつつ、だとどうしてもウサン臭くなってしまう。
「自然に」というのは、言い訳がましくないということです。
この話も、過去の日記をひもとけば、約4ヶ月前に自分の中では盛り上がっていた話ですね。しばらく寝かせておいて、考えが醸成されてきたのでしょう。
(再録おわり)
人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師
- 「ないものねだり」の無間地獄
あれがほしいこれがほしいというのは、それが物質であれ地位であれ、おさまることを知りませんね。
ですので、そういう欲望とは仲良く付き合うことが大事です。
仲良く付き合うためには、欲望を暴走させないことが大事です。暴走し始めたらもう仲良くはできないでしょう。
ある程度の欲望は、ストレスという存在と同様、人間の向上には必要なんですね。
欲望を鬱屈させておくのもよくない。だから、「健全な欲望」をもっていないと。。
「健全な欲望」とは、もちろん、犯罪に手を染めなさそうな欲望、という意味もあるでしょうが、それだけではなくて、「実現可能な欲望」ということでもあるでしょうね。
自分の器から目を背けたり、身の程をわきまえていなかったりすると、はたから見てもムチャな欲望を抱えてしまってそれが過剰なストレスになってゆきます。
- 都合のいい解釈
自分にとって都合のいい解釈をすると、それは100%間違っている、というか相手が感じ取ってほしかった方向とは違うほうへ行ってしまいます。
であれば話はカンタンで、自分の都合の悪いほうへ解釈すれば、相手の思いは高い確率で受け止めることができるわけです。
問題なのは、その解釈を受け入れることにより、自分が金銭的に不利益をこうむったり、不快になったりするわけです。それとどう折り合いをつければよいか、というと。。
あんまりヒトと会話というか交渉をしなければいいのではないかと思うのですが。。
そういうわけにはいかないのだろうか。
死、あるいは宗教に近い話
- 他人の人生をブチ壊しにする可能性のある宗教
宗教に傾倒するには、ある程度の「現実解」を自助努力により得ていることが肝要です。
じゃないと、単に依存のための宗教になってしまいます。
最近、自分がしつこく考えているのはまさにそこでして。。
たとえば、現実生活をある程度「確立」していないうちに精神世界に傾倒してしまったら、「現実をみろ!」「逃げるな!」と批判されるのがオチですし、どんどん批判されるべきだと思います。
どっぷり傾倒してしまう前に何とかして目をさまさせてあげよう、という意味で批判するのは優しさでもあります。
そこで、「戻ってこれない」ヒトに限って、宗教や精神世界に傾倒するあまりに現実世界から遊離を始めてしまい、そのために他人や家族に大迷惑をかけ、現状をサイアクの状態にブチ壊しにしてくれます。
そういう輩が、直接的ではないにせよ周辺にたくさんいるのです。(つまり、「物理的周辺」ということです)
たとえば、なぜ、新興宗教にハマる主婦が夫の稼ぎを全部持っていって、家事もしなくなり、部屋はちらかし放題、家は不潔な状態に陥り、さらに借金までして、家族を崩壊させてしまう「必要があるのか」。
その必要性は、150%ないわけです。自分ひとりでやっていればいいのです。宗教にカネを貢ぎたいのであれば自分で稼げばよい話で。その教団から「家族は金づるだから」と洗脳されてしまうわけですね。
「家族は金づるだから」と洗脳する宗教団体ってナニサマ、という気になりませんか。
ナニサマに洗脳されるヒトたちももちろん、ナニサマですよ。
つまり、宗教に傾倒し、盲目的になってゆくことにより、究極の「自己チュー」になってゆくわけですね。
いや、違うな。。宗教への入り方が悪いと、そうなる、ということです。「依存」のために、すがりたいがために、というのがトリガになるとそうなります。
でも、そういう入り方をする人間はそもそも利己主義、自己中心主義のケはある。現実社会でそういうケがあったからこそ、利己主義、自己中心主義を爆発させることができる、現世の快楽を全肯定する宗教に「依存」してゆくわけです。
抑圧された現実社会(自分を「解放」する術を知らない、あるいは「知ろうとしない」)からまんまと解き放たれて、「超自己中心的」になってみたいのですね。
と、考えると、「宗教」(「新興」宗教)と「精神世界」(スピリチュアル)は今のところ自分の中では「アヤしいもの」として混在してしまっていますが、ある程度分けられるかもしれません。
単に、カネが絡まなければそれほど他人には迷惑はかからないのです。問題はとにかくそこです。
まァカネが絡まなくとも昼間っから精神世界に没頭して働きもせず、何もしない人間というのも困ったチャンですが。。
なぜ困ったチャンかというと、精神世界に没頭した結果として、「自分は悪くない この世が悪い」というありがちな結論に持っていこうとするからです。自分が何もしない、働かないという事実を自己肯定したいがために精神世界に没頭している「フリ」をしている。長時間かけて導き出される結論は単なる「言い訳」なのです。
でも、これも相当問題アリですね。。 自己肯定どころか、勝手に自分が選ばれた人間であるとカンチガイする可能性が極めて高く、その結果として「オレを(アタシを)食わせろ なぜオレ(アタシ)が働かなければならないんだ」というふうになっていきますから。
そしてそれがエスカレートして、家族に暴力をふるったりするとなると、これはカネが絡むよりも厄介です。
結論としては、孤独に精神世界に没頭するというのは、「なぜ」そうするのかを考えてみると、「自分は悪くない」=>(どころか)「自分はエラいんだ」という結論に達するためなんですね。
そのトリガとして、いわゆる「スピリチュアルカウンセラー」的なところにいけば、おそらく必ずといっていいほど「あなたは悪くない」と言ってくれるのでしょう。
- 処方箋?
現実に、私、というか、人間の身の回りに発生する諸問題を片付けてゆかないとならないわけですが、宗教というものがそれらの諸問題の解決に一役かってくれればそれでいいと思うんですね。思想として。
たとえば、自分はこうありたい、とかそういう「一本」がびしっと通っていれば、自分の身の回りに発生する諸問題の解決が、相当楽になると思うのです。
なぜかというと、判断基準が明確化されているからですね。
ということは、他人も、その人に対して扱いやすくなるのです。
すごくカンタンな例でいえば、新聞の勧誘がドアの前まで来たときに、びしっとした対応がとれれば、高い確率でもうきません。でも、「2ヶ月だけ。。」とか言い訳して(自分に)2ヶ月購読したら、1ヶ月半ぐらいしたらまたその、もう二度と会いたくない勧誘があちらからやってきますね。
自分の中で「びしっと」したものがあれば、悩みも相当減ります。
宗教というのはそういうものを形成するために一役かってくれます。間違いなく。
最初は「利用する」スタンスでぜんぜんかまわないと思うのです。我々はとにかく現実世界を生きなければならないのだし、出家するわけではないのです。宗教にすべてを委ねてしまうわけにはいかないのです。
そう、現代社会に生きる99.9%のヒトは宗教にすべてを委ねてしまうわけにはいかないはずなのに。。
とにかく、「それなりの」生活をすでに確立していて、精神的にもある程度安定軌道に乗っているヒトが、「よりよき」生活を求めるために宗教に関心を持つ、というのは、いいんじゃないでしょうか。
ブッダのまわりには「良家の子女」ばかり集まっていたといいます。
日本人が、生来ではなく自発的に「イエス様」とか、名前を断定した一神教の方向へ行ってしまうところに「逃避」のニオイを感じてしまうわけです。わかりやすいですから。
たまたま「イエス様」を例に挙げましたが、日本におけるキリスト教が、他の数多の日本的神道、日蓮宗をベースとした新興宗教と異なるのは、ひとえにカネのニオイが「それほど」しないというところです。
仏教や神道をベースとした、いわゆる「やおよろずの神」という考え方は、そもそも「神」を限定していないわけで、神を限定しないという思考は直接的ではないということで、敬遠されるのかな、と。
まだまだ私は詳しくはないのですが、同じく仏教や神道をベースとしていながら、それを一神教的に、大衆受けするように「うまくアレンジした」のが日本の新興宗教ということになるのでしょうかね。
ところで、私はその「やおよろずの神」にこそ可能性を感じるわけです。といいますか。。
直接的に、ポンと「回答」がでてくる「装置」みたいなものがあるのだとするとそれはもう、アヤしくて仕方がないという。。一神教とか新興宗教は私にとってまさにそれなのです。
それよりも、「やおよろずの神」のようなよくわからない抽象的な世界を媒介した抽象的な思想にトライしてかつ、そこを突き抜けたところに自分なりの「解」はあると思っているのです。
わかりやすいところには真の「解」はないのです。
それは、私はだいぶ以前より経験則で知っていました。
自分について
- 逃避?
私はよく「思想に耽って」いますが。。まあ結局はたからみればぼーっとしているだけです。それは、自覚しています。
あるいは、このようにパソコンに向かっていることもありますが。。 それもはたからみればいわゆる「ネットサーフィン」をしているのと同じなのでしょう。
思想に耽ることを「逃げ」と思われるとすごく心外なんですね。
私は現実から思想に逃げ込んでいるわけではありません。むしろヒトより一生懸命現実を生きてゆくために一時的に思想に耽って、正しい現実解を探し求めているわけです。
悟空たちが「精神と時の部屋」で修行するのと同じですよ。(マジメに)
現実社会にいるときは、きわめてふつうの社会生活を送っているわけです。だから、思想に耽るとは単なる「息抜き」「趣味」ととらえてもらえればそれでいいのです。(本当は違いますけど)