元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

黙っているためには 檀家制度

自分について

  • 黙っているためには

ムカシからなるべく、黙っていようとはしています。たとえば、ちょっとアタマがイタいとかどこがイタいとか、そういうのとか、テレビに対してツッコミをいれたくなったときとか、とあるお店で料理がおいしくないときとか、駄洒落を思いついたとき(!)とか。。
どちらかというと「グチ」方面。ネガティブなこと。

どうしてそうなったのかはわからないのですが。。
自分がしゃべることによって、モノゴトが解決に向かうのであれば発言するよ、というスタンスですね。
グチをいったところではじまらないのであれば、言わない。
それと、場の雰囲気を気にするというのはありますね。


自分のこのスタンスに対しては、根本から理解を示してくれるヒトは、実はほとんどいないということに気付きつつあります。
理解してくれるのは、同じような主義を持っているヒト。

まず、「黙ってりゃ付け上がる」ヒトがたくさんいますね。
それと、「何か思ってるんなら言ってくれよ」「何を考えているのかわからない」と逆ギレするヒト。そういうヒトは「推察力」が欠如しています。

ただただ、「そういうヤツなんだ」ということで、ほおっておいてくれればそれでいいのです。
黙っていることで、迷惑はかけないのですから。


ただ、「黙ってる」というコトバの選択自体、正しいのかどうか。。
「グチ方面」はなるべく語らないようにしていますが、それ以外のことではけっこう饒舌なので。。 全くもって「無口」ではないのです。
でもムカシは、ヒトを褒めることもほぼ皆無でした。それが変わったのは、「褒める」という発言は「モノゴトが解決に向かう」に等しい、ということに気付いたからですね。


「肝心なことをしゃべらない」という言い分に対しては。。
自分の思いをそのままストレートに表すことが「肝心なこと」ではありません。ゼッタイに。
それは「垂れ流し」に等しい。


先日書いた、たとえば電車でウォークマンをシャカシャカさせている若者に対して黙っていること。「それが悪いかよ」の話につながってきそうですね。

常に、「黙ってる」訓練をしているがために、そういう醜い光景を見ても特にスルーできるのかな。
そういうスタンスを「逃げじゃないのか!」と、自分がその場に居合わせたらゼッタイに何も言わないであろうヒトたちに対してこそ、的確な発言が必要ですね。


釈迦は自分の国が滅ぼされようとしていたときも発言はしなかった、と聞きます。
それは、その事実を完全に予見できていたからだ、と。

抜粋・紹介

仏教が好き!

仏教が好き!

「河合 (略)お釈迦様にとっては、自殺はどうなっていたんでしょうね。
中沢 お釈迦様は最後に死ぬときに、「この世は美しい」と言っています。「『この世は美しい』という真実を、自分の心でしみじみと理解するためには、自分が教えたような生き方をする必要がある」ということだけを、考えていたんじゃないかしら。
河合 これは非常に深い話ですね。「この世は美しい」と自殺にあたってしみじみと言える人は自殺をしてもいいことになるのかな。そんな人は自殺しないとも言えますが。」
「中沢 (略)輪廻のことだって、信じているのかどうか。でも、少なくともお釈迦様は、それについて、口にしなかった。それを言い出したのは、後世の大乗仏教です。
河合 ブッダは賢いから言わなかった。
中沢 いまのダライ・ラマも、自分は再生しない、と言っているようですが、お釈迦様の沈黙はそれにもまさるすごさです。
河合 それもすごいですね。釈迦にとっては輪廻するかしないかは問題でないのですね。輪廻するかしないかにこだわって立論してゆくと彼の思想は理解できなくなりますから。
中沢 生物は生存の条件からして楽になれない、と仏教は考えます。どういうところが楽になれない限界かというと、細胞膜があるからでしょう。自分と外の世界を分けて、自分の世界の細胞膜の中に自分の世界を完結して、このなかで楽になろうとしている、という条件づけが、生物から苦しみを取り除けないんじゃないでしょうか。
だから現実の世界でどんなにがんばってみても、それは自分の外側につくる多種多様な「細胞膜」をどんどん強固なものにしているだけで、そうやって安全な「膜」の内部にこもって、一人悦に入っているような楽のもとめ方だと、本当の楽は絶対に得られないというのが、仏教の考えです。でもこれは、個体性というものをあまりに大事にしないと言って、西欧人にはちょっと受け入れがたい考えでしょうね。西欧の人はとかく免疫抗体を強固につくって、ちゃんとした個体をつくって、その個体の内部で豊かになっていきましょう、と発想しますから。」


「中沢 日本人はひょっとしたら、いま世界でいちばん不幸せな民族になってしまっているのではないですか。経済や社会のシステムは、キリスト教的世界観を背景にしている西欧製のものを受け入れたけれども、「幸福」を考えるときには、それとは違う回路を作動させています。「ハッピー」や「ボヌール」の背景には神がいますが、日本人の「幸福」の後ろには、ムカシそれを支えていたスピリットさえなくなっている。これは大変な不幸です。
河合 そうなんです。キリスト教的世界観をキリスト抜きで受け入れたのだから、まったく大変です。
(略)ただ、何が救いになるかと言えば、みんな何となくまだ無意識的に仏教を持っているんです。だから無意識的には救われているんです。(略)もっと日本人はイライラしたり、喧嘩がおこったりするはずやけど、あんまりしてないでしょう。これはやはり無意識的にまだどこかで仏教なんです。
(略)それからもう一つ面白いのは、ビジネスマンである程度以上金持ちになると、仏教的なことを言い出す人もいます。ある程度以上金持ちにならないとだめなんですよ。なったら途端にそれを言い出すわけです。
中沢 それを言い出さないようでは、たいした成功者ではない(笑)
(略)大金持ちになったらザカート、喜捨をしなくっちゃ。イスラム教の人はあれで安心を得ています。自分はお金持ちになったけれども、お金持ちになるということはそれだけでは不幸になるから、これを喜捨すると安心が得られる。日本人のなかでは、やはり仏教に関心を持つというのが、そこにあるわけですね。」


「中沢 いま大事なのは(略)普通の日本人でも「定年退職したら一つ仏教でもやるか」とか、あと「山頭火みたいに漂白の托鉢生活でもやってみるか」とか、ああいうののもとになっている安心を与えるものの本質は何なのかということでしょうね。日本人にとって仏教とは何かと言ったら、何かそういうことにつきるんじゃないか。でもお坊さんたちがそういうことを考えなさすぎですね。
河合 (略)もっと恐ろしいのは、ある意味で言うと、悟りを開くということは、言うならば、自分を包んでいる「膜」が弱くなって我執がなくなる―それが悟りですよね―弱くなったつもりで、「おれは悟った」と言うてる人が、金が儲かってくると、まだ我執が復活してきてぐわーっと利己的になってくる(笑)。だから悟りを開いたはずのお坊さんが、やけに金に…。
(略)執着したり、それからバカな遊びをやり出すでしょう。あれはそれほどの物質のないところで悟りを開いているから、モノがきたらやられるわけですよ。これも僕、大問題やと思うんです。
中沢 (略)つい数十年前の日本というのは、大変に物の少ない社会でした。庶民の家を撮影した写真なんか見てますと、いいなあこんなに物が少なくってと、感動します。そういう時代に形成された思考ですものね。われわれの基本となっている倫理というのは。
(略)『声に出して読みたい日本語』という本が大変によく売れていますけど、大体は音読にたえる「いい日本語」と言われているものは、貧乏な時代に書かれています。あとはだんだんと声に出したくなくなるのですね。
河合 日本人の倫理、宗教などは、物が少ないことを前提にしてそのシステムをつくってきたのです。
中沢 その時代の日本語に対して「いいなあ」ってしみじみしていますが、その言葉はいまと対応はしていません。物があふれて、言葉は貧しくなった、とよく言われますが、そういうしみじみを続けていても、われわれの不幸は解決されないでしょう。
河合 そうです、そうです。だから時代と環境が変わったときにどうするか。僕、これは本当に文化系の学者とか宗教家とかの怠慢やと思いますね。何も考えていない。
(略)自戒もこめて言っています。そしてずるい人は、言うだけ言うといて、自分の生活は別にやったりしているでしょ。」


「中沢 (略)日本仏教というのは(略)その創造力が江戸時代には止まってしまいます。日本仏教はすっかり展開力を失って、そこから明治に入るわけですね。明治にこんどはキリスト教とか西欧合理主義とか、個人主義とか資本主義とか功利主義とかいろんな思想が入ってきたときに、仏教はすでに新しい状況に創造的に対処できる力を失ってしまっていたのかもしれません。
河合 それはね、僕は仏教が保護されすぎたからだと思うんです。何も宗教的活動をする必要がなくなったのですよ。
(略)つまり、宗門改をやり出して檀家制度ができたでしょう。だから本来的な宗教活動なんてしなくても、みんな食えるわけです。これはいちばん堕落しやすい。
中沢 一部の例外を除いては、まったく弾圧もされませんし。
河合 「安心」は大切ですが、宗教にとって「安楽」は危険なのですね。
中沢 むしろそういう意味で日本人の創造的な宗教を担ったのは弾圧された金光教とか天理教とか大本教とかで、それのベースになっているのはアニミズムです。」


「中沢 (略)直観力とか感覚的な問題に関しては、神道というのは非常にすぐれた思想的な力を持っている。それに仏教の体系性を合わせて、日本人はそのつど、そのつど新しい状況に適応して、限界をつき抜けていく思想をつくってきました。いまの危機の時代に仏教に何ができるかと言ったら、そうやってまだこの文化のなかに潜在的なまま眠っているものに、表現を与えていく創造をおこなう以外にはありません。キリスト教の西欧を知った上で試みられる、新しいかたちの神仏習合と言いますか、エコロジカル仏教と言いますか。
河合 そうですね。西欧の経済システムや幸福観の上辺だけはキリスト教抜きで取り入れたわけですから。」


「中沢 (略)神様とお金がどこが似ているかというと、どっちも永遠ということを言っている。神は永遠をあらわしています。(略)なぜ人間が貨幣をつくり出したかというと、価値を持ったものが壊れていく、風化していくという事態を恐れたからです。
仏教は(略)「あらゆるものは滅びる」というところから始まる。永遠そのものについて語りますけれども、それはこの世界にはない。それは涅槃(ニルヴァーナ)、煩悩のない状態、つまり<死>ですから、この世の幸福に執着している人が行きたくない場所ですよね。
河合 そうなんですよ、
中沢 この世界のなかに永遠を繰り込むことは絶対にできない。
(略)ところがキリスト教は永遠を繰り込んじゃうんだろうと思うんです。
河合 仏教的に言わせると、それは錯覚なんやけどね。
中沢 (略)そのおかげでヨーロッパで数学が発達したんじゃないかと思います。「無限」という考えを発達させたのは、やはりキリスト教の西欧です。それ以前は無限はこの世界には入ってこない、あるいはこの世界には繰り込めないと考えていました。
ところがこの世界に貨幣というものができて、実に安易なかたちで無限の繰り込みがおこってしまった。お金はどんどん増やしていくことができる。それは幸福量の増大を意味する、という考えが生まれてきます。ですから先生がおっしゃったように、いまの世界にとって神と言ったら貨幣、金というのは、理屈から言っても本当なんでしょう。ただ、それは人間に幸福はもたらさない神です。
(略)永遠で変化しないものは人間の心に安心をもたらさないということですね。(略)一方いま医学が押しすすめていることというのは、いったん生まれた個体をとにかく延命していくために、外からの悪影響を排除したり、内部にがん細胞みたいなかたちで異常増殖が始まると、これを何とか除去していく方法を通じて、生まれた個体をできるだけ長い時間持続させていこうとしている。そしてこれが幸福だって宣言している。この考え方って貨幣の考え方とそっくりじゃありません?
(略)心のなかに仏教を抱えた僕ら日本人からすると、「それはどうも幸福じゃないな」と思えます。そこらへんを日本の哲学者や宗教者はまともに考えないと。」


「中沢 (略)そういうサーキットでレースをやって、設定された目標に早くゴールしたものにノーベル賞が与えられる。大学の科学研究はそういうラインにすでに乗っかっていました。まわりにはそういうレースに突進していく友人たちが、何人もいました。
彼らから言わせると、僕は競争を怖がっている臆病者ということになりましたが、僕はむしろ勇気をふるって脱落したんだぞ、と大声で言いたかったですね。そんなこと言っても理科系の人たちは、理解してくれませんでした。またいわゆる文化系の人たちは、そうそう君の言うことよくわかる、科学に人間がわかるわけないもんね、って言って肩を抱いてくれるんですけど、それも違うって、肩の手をどけてもらうしかありません。
そこで行き場がないのでしょうがないから宗教学科に行きました。何でもできそうでしたからね。ただ、そこへ行って、こいつはしまったと思ったのは、そこにいる気のいい友人の多くが、科学や数学のことをほとんど知らないんです。
(略)宗教というものの背後には、論理的なものが動いています。(略)宗教的な直観を動かしているのは、陶酔だけではなくて、その陶酔を一つの方向に動かしているのは、ある種の理法なのだと思います。でも、そういうことを言うのは、文学部では評判がすこぶるよろしくなかったです。そんなことを考えないで、事実だけを正確に理解したほうがいいんですね。大学というところは。
河合 ところが面白いのは、実験心理学はまだ科学主義なんです。(略)
中沢 日本の科学のなかにも、ヨーロッパ科学の前提となる神話を、根もとのところで揺さぶろうとした試みがいっぱいあったと思います。(略)湯川秀樹素粒子論なんかが典型で、老子の考えなどから着想しているところがいっぱいあります」


「中沢 曼荼羅の内部では、一人ひとりの、どんな細部に潜んでいる小さな神様も、それぞれが勝手に動いています。しかしその一人ひとりの動きは、ただちに全体につながっていきますから、勝手に動きながら、真ん中にいる大日如来の意図とシンクロニシティー(同時性)の関係で結ばれていることになります。
河合 ただシンクロニシティーで結ばれているところが非常にわかりにくい。
中沢 勝手に動きながら、相互の意思疎通ができている、そういう動き方ですね。ライプニッツなら予定調和というところです。
河合 そのときに勝手に動いているんだけれども、その勝手に動いている人たちはどこかで全体的調和を意識している、というのはあるんでしょうか。
中沢 私たちがまだ知らないやり方で、交通・通信がおこなわれているのだと思います。(略)
一人ひとりは好き勝手に動きながら、シンクロニシティーの原理で通信をおこなって、全体調和を保ちながら、自律的に動いているわけです。こういうの、いいですね。河合隼雄的でしょ。
河合 それが僕の理想像です。」


「中沢 いろいろな宗教のことを勉強してきて言えるのは、たいがいの宗教は順調に発達すると、最後は神秘主義という段階に辿りつきます。そうすると、キリスト教だろうがイスラム教だろうが仏教だろうが、みんな同じことを言い出します。その内容をよく見てみると、オーストラリア・アポリジニの老賢人などが言っていることと同じなんです。
(略)そういうものは、人間の心の働きのいちばん重要なところにつながっているように思います。なぜ仏教が大事かというと、人間の思考のいちばんの始まりの状態といちばん発達した状態というのを、ひとつの結合できる長所があります。この点、キリスト教などはなかなか頑なにできていますから、そういう人類の自然な叡智に、すんなりと辿りつくのがむずかしい。
河合 (略)たしかに神秘主義と言うかぎり、イスラム教もキリスト教も仏教も似てくるのです。それは井筒俊彦先生が言っておられるような「存在」(being)ということが根本になってきて、それは名づけることができないのです。したがって、「無」とか「空」とでも呼ぶより仕方がない。しかしそれは何もないのではなく、逆に存在そのものと言っていいのです。(略)」


「中沢 (略)たとえばうつ病の治療に関して(略)フロイトなどが一生懸命考えぬいたことを素通りして、いきなり抗うつ剤という薬に行きます。問題は、(略)すべては脳内物質であるとわりきって、薬が投与され、心の科学の伝統はいまや薬の威力で、おびやかされているのではありませんか。
河合 ところがアメリカの最近の研究では、薬で治った人は再発率が高い。それで薬と心理療法を併用した人は再発率が少ないことがわかってきました。(略)
中沢 (略)僕は何ごとも併用になるのではないかと思うんです。
河合 僕もそう思っています。
(略)人間というものは、たとえば薬で原理的に治るとしても、その治った人間がどのように生きていくかは、脳の問題ではなくなります。治った人間がどのような人生観を形成するかも、脳の問題ではありません。それはどうしても心の問題としてやらなければいけない。
(略)われわれの臨床心理学の「研究とは何か」ということが問題になったわけです。(略)うつ病の人は「何歳で発症している」とか、それこそ「失恋した場合にはうつ病になる人が多い」とか(略)いくらでも研究できます。ただそれをいくら知っていても、うつ病の人が来たときにはほとんど役に立ちません。(略)それで僕が「そういうことはやめて、絶対に事例研究をしよう」と言ったんです。(略)
もう二十年近く長い間がんばってきたわけです。そういうときに問題になるのは、「僕がやっている事例研究は文学なのか」ということです。
中沢 文学でしょ。
河合 文学とは違うんです。どこが違うかというと、「僕は文学の才能がぜんぜんないのに、これだけ心理学で成功しているから、これは文学ではないのだ」
中沢 なんだかよくわからないなあ(笑)。
河合 (略)文学とどこが違うかを言うのは非常にむずかしい。ただ僕は事例研究は物語だ、とこの頃はよく言っています。
中沢 ただ、物語は文学ではないですよね。
河合 ええ、そうでしょう。だからそこが面白いんじゃないですか。」


(抜粋・紹介おわり)

今の「寺制度」に対してちやほやしすぎじゃないのか? ということです。
それは子どもの頃からそう思ってきました。なぜ坊さんは、ぶつぶつお経を唱えるだけで大金を持ってゆくのか、そして、なぜそれを受け取るときに態度がデカいのか、なぜ、「暗に」車で迎えにいくことを要求するのか。

ただ、あれが資本主義にさらされたときにどうなるのか。。というと、とりあえず檀家制度は崩壊させてみてもいいような気はしますけど。
だって、あの仏教のあり方自体間違っていますからね。ご先祖様が安心して過ごしていけるための場を提供している、というのは、あれは不動産と変わらないでしょう? 死んでまでも家賃がかかる。

お坊さんはどこまでも競争原理がないために堕落して、「ご先祖様」を預けておくのもアヤしくなってきています。それに気付いてはいるものの、はてどうすればよいか。。

「墓は必要か?」という話になってくるでしょうか。


それにしても、庶民の宗教心に、ゆるやかにつけ込まれているような気がするんですよねえ。新興宗教までひどくはなくとも。。

とりあえず「葬式仏教」とかいわれるように、お坊さんが「発生」するのはヒトの「死」に直面したときですから、その「葬」のイベントを仏教なしで、インディペンデントでできるようになれば、ビジネスとしての寺、檀家制度は崩壊するのでしょうが。。


お寺さんでもお坊さんでもなんでも、努力とか向上心のないヒトはキラいなんですよ。
それと、「カッコだけ」ということです。あのヒトたちはお経の朗読の「技術」は向上しているのかもしれませんが、根本思想のところに進化はないようです。
夜の街に繰り出して遊びまくる坊主とか、そういう姿を目にすると。。