元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

毅然とした態度?

本来の日記部分

今年の春、2年にもおよぶ歯科治療がひと段落した、と書いたのですが、経過判断で、少し悪いほうに向かっているとのことで、治療再開。。

ブルーになる要素がまた増えました。小銭入れをなくすし。。(お金はほとんど入れていませんでしたが、ちょっとした、大事なものが入っていました)
仕事(副業的な)ほうもよくないし。。

こういうときこそ「オレが何か悪いことしたかよ!」と夕陽に向かってぜひ叫ばせてください。

ところで、

J.BOY

J.BOY


「路地裏の少年」が今自分の脳内でヘビーローテーションです。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 「毅然とした態度」?

現代社会においては、「超然としている」「ひょうひょうとしている」こと自体が、罪なんですね。


この現代社会を行きぬくにあたって、何ら「苦労」がないように見える(「見せる」)ことが罪。

罪だから、「捕まる」。「何であいつばっかり。。」という批判の矢にさらされることになる。

寺とか神社に籠っていれば、いいんですよ。そういうところにいるヒトたちだけが、超然としていることが許される。


「超然と」なんて、誰でもできます。最初はふりをしていれば、いずれそうなります。人生になんとなく不満足感を感じているヒトは、それを解消するには、そのあたりがとっかかりになると思います。


でも、仮に「超然と」が実現できてしまうと、それは「罪」だから足を引っ張られてしまう。この社会ではもっと「あくせく」「あたふた」しろ、と。「せかせか」動け、と。グチや不満を表明しろ、それが当たり前だろ、と。
すべて「それがふつうなんだから」で結論づけられてしまう。




  • お金問題 〜マネーで幸せになるために〜No.52]mag2 ID 0000204788

「余計なものや、すでに持っているアイテムを、よく考えもせずに次々買わない。買わなければ、捨てる必要もないわけで、捨てる技術を磨くことも不要になります。
テレビや雑誌のリフォームのテーマでは、相変わらず「収納」特集が人気ですが、持ち物を増やすために収納を増やすというのでは、何か違うのではないでしょうか。」
(『「北欧流」愉しい倹約生活』ヨーナス・ブランキング/中島早苗著)

(抜粋・紹介おわり)
こういう考え方とても好きです。「持ち物を増やすために収納を増やすというのでは、何か違うのではないでしょうか。」


そう、「何か違う」「すごく違う」んですよ。

仏教が好き!

仏教が好き!

「河合 (略)近代科学はヨーロッパというよりはキリスト教文化圏のみに生まれた。(略)知識としては、中国人なんかみんないっぱい持っている。ところが、いまの技術に結びついてくる科学技術というのは、キリスト教文化圏だけに特別に出てくるわけでしょう。これはさっきから僕らが言っている隔絶した神を持っていたということと、深く関係あると思うんです。つまり、神に取って代わって人間が自然に対して「全部自分がやるのだ」という考えが出てきたんじゃないか。
中沢 (略)僕の直感では、その秘密はシャーマニズムのなかにあると思うのです。(略)まだこれは直感の域を出ませんけれども、どんな未開社会でもシャーマニズムと野生の思考は共存しているのです。(略)」
「河合 シャーマニズムが本当に巨大化して、こんなに大きいやつがあるんだったなということで、みんな急にそこでインパクトを受けてねえ。つまり、僕は前に人間は「俺がやった」と言いたがると言ったけども、巨大化したものを背景にして人間が何かをやりたがるという、これが人間の悪いところ。
中沢 そのことが言いたかったことです。
河合 本当言うたらね、大きい国をつくったってしゃないやないの。
中沢 大国をめざすこと自体がもう狂気なんでしょうが、狂気が大声で自分の正義を言い立ててると、何となく「それもありかな」なんて思っちゃうところが、人間の弱さなんでしょうね。
河合 そんなことができるんだったら、ということでほかの者もその真似をしたり、それに対抗したくなったりするし、それとよく似ているのがいまの科学技術。」


「中沢 ブッダは、「自分の前に七人のブッダがいた」ということをしきりに言いました。(略)だから自分はまるっきり新しい教えを開いたんじゃなくて、こういうブッダたちの一人なんだというわけです。
ブッダという人物は(略)古代帝国に触れたとき、この帝国というものが、知恵を解体してさまざまなバランスを崩壊させている現実を見た。帝国でさかんないろいろな哲学も学んだ。けれども、そういうインド哲学のどれ一つを取ってみても、帝国原理と何らかの共犯関係がある。哲学が、解体されつつある知恵を回復できるものではないことを、ブッダは知った。哲学はただ世界を解釈しているだけだ、というわけです。そこで彼は解釈の哲学を否定して、それらすべてを乗り越える実践のかたちをつくろうとした。(略)ブッダの教えはたしかにマガダ国のなかで生まれて、マガダ国に庇護されて成長します。のちのアショカ王に庇護されるように、帝国のなかで受け身の態勢で成長してきますが、ブッダがつくったサンガは帝国の原理には拠ってません。
河合 帝国主義と結びつかない宗教ですね。
中沢 帝国の内側に生きながら、そして帝国もそれを庇護するわけですが、帝国の原理を内部から解体させていく、いまふうに言うと、脱構築の原理がセットされた「宗教でない宗教」「知恵としての非宗教」がつくられた。そういう宗教ならざる宗教をブッダはつくろうとしていたんではないでしょうか。
そうすると、さっき先生は科学技術のなかで生きていて、しかもこれとは違う知恵を生きさせていくことが可能だろうか、「それが仏教じゃないか」とおっしゃったけれど、まさにそのことをブッダはおこなおうとしたんだと思います。
河合 それはどのようにして。
中沢 サキャの小さな王国はいずれマガダ国に滅ぼされます。小さな部族王国はみんな滅ぼされてしまいました。そういう未来をブッダは完全に予見していました。(略)彼はそれによって、野生の知恵を持った部族国家の思想を死に絶えさせなかった。帝国に覆われていく世界のなかで知恵の持続を実現しようとした。
そうすると、現代において仏教は何かということが問題になってきます。もう一度ブッダと同じ生き方や戦略を現実化しようとしたら、この一神教的で超国家的な巨大帝国に覆われて、グローバルスタンダードが世界を征服していく世界のなかにあって、それは人間の魂があるべき姿ではないと理解して、そのなかで知恵を生き延びさせる方法として、新しい仏教は生まれるのではないでしょうか。
いま伝承されている仏教は、紀元前五世紀に古代国家誕生の頃につくり出されたブッダの戦略から生まれた思想ですけども、それから五百年ほど経って、さらに巨大なローマ帝国が発生したとき、同じ思想を実現しようとしたのが、あの『新約聖書』のイエスです。(略)
たしかに知恵のヒントは、いま伝承されている仏教のなかにいっぱい残っていますが、そのままでは生きません。これを生きさせるためにはどうしたらいいかと言うと、まずブッダは何をしたかったのか、その本質をつかむことが必要です。そのしたかったことを現代に生かすにはどうしたらいいか(略)そのためには現代がどのようにつくられているかを知り抜いている必要がある。しかも科学技術とグローバリズムに覆われた現代で、それに取り組んでいかなきゃいけない。仏教が決してもう終わった思想ではないと思うのは、そういうことなんですね。
(略)そのときには、「一神教多神教」とか「ユダヤ教キリスト教イスラム教対仏教」というような図式を取ってはだめだと思います。本当に関係は複雑なんですから。
河合 そのような単純な対立図式で考えること自体が一神教的だともいえますね。(略)」


「中沢 (略)モーセシナイ山で神から与えられた「十戒」というのはそういう「ならず者」に命令した言葉です。あれは上品な人とか知識人たちに向かって言うことじゃない。「盗むな」とか「姦淫するな」とか、それははっきり倫理の言葉です。
(略)神の言葉は明瞭な倫理の言葉でなければいけなかったと思います。最初から、古代イスラエルは反国家的で、脱国家的で、新しい共同体を国家の上につくるという明瞭な意識を持った人びとがつくった共同体だった。(略)ところが仏教はそうではなかった。ブッダのまわりに集まった最初の人びとは、これはたいした知識人だtったのです。
河合 だから「良家の子女」という言葉が「ブッダ伝」にはなんぼも出てくる。
中沢 (略)イエスの弟子たちはたいがいガリラヤ地方の猟師たちです。(略)良家の子女たちにいちいち倫理のことを言う必要はなかったということ、これは重要なことでしょう。
河合 (略)それがもう当たり前、当然のことで、次の問題はまさに心の問題ですから。(略)
中沢 だから近代になってブルジョア社会ができあがって、ブルジョア社会の教育とか、そういうものが浸透していった世界のなかで、では、次は何かと言ったら、やはり心理学とか精神分析学が登場する。あるいは(略)ユングの考えなどは仏教にとても近い。心が問題になってくるからです。
(略)仏教では、心の本性として、「『こういうものが心である』とか『これが魂である』とかいうことは言えない」というのが出発点でしょうから。ただ、心というわけのわからないものがこの世をつくっている、それがどういうものかは瞑想によって体得するしかないのです。
ところが、一神教の場合には、輪廻を脱出してあらゆる神々の世界を超えた存在をつくっている。存在そのもの、それを神と言い、名前を与えたということから、人類の第一期の形而上学革命だと思うんですけど、つぎに科学が生まれて、これが第二次形而上学革命でしょう。その先に第三次形而上学革命というのが来るとしたら、それに一番近い点にいるのはたぶん仏教だろうと考えます。近代の科学と一神教の両方の限界を仏教が超えているところを持っていますから。」


「河合 (略)「この子は非行少年です」なんていうのは完全に押しつけでしょう。世の中に非行少年なんて絶対にいないんですよ。それぞれが個性を持った異なる存在なのですが、そこに「非行少年」というレッテルを張ってくるわけでしょう。「そんなものじゃないよーッ」と言いたくもなる。いつもレッテルを張られてきたという怒りがあると思いますね。
中沢 その怒りはとてもよく理解できます。むしろ僕が子どもの頃からまったく理解できなかったのは、そんなレッテル張られて、自分はそんなものじゃないはずなのに、抵抗もなく受け入れる子どものほうが多いでしょう。
河合 多い、多い。
中沢 反発すら抱かないで生きていけるという心理の構造が僕には謎でした。いいトシこいても、まだ謎なんですよ、それが(笑)。
河合 いや、それは謎ですよ。本当に人間というものの謎です。しかも自分でそういうレッテルを張ったりしているんですからね。
中沢 こういう話から始まったのは、哲学から心理学から社会に対する対応にまで、ありとあらゆるところで「否定」がつきまとっているからなんです。仏教という宗教についても「否定」がありとあらゆるところでつきまとうわけですね。
河合 あれも違う、これも違うと考える。
中沢 まずブッダもそうでした。(略)」

(抜粋・紹介おわり)

「哲学はただ世界を解釈しているだけだ」というパンチラインは、シビれますね。


仏教、たとえば日蓮宗系の分裂って、プロレスですよね。特に、新日本系の。
猪木さんという強烈な教祖から、その遺伝子を持った弟子たちがどんどん分裂してゆき、それぞれがまた同じように光る。

誰か仏教とプロレスとの関連について研究してないでしょうか。


そういえば、須藤元気選手が「思想家」(?)に転向したのは、前田日明さんの影響なんでしょうね。。