元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

言わない世の中 

本来の日記部分

日の出日の入りの時刻に、労働時間を合わせることができたら、いいですね。
夏、残業がないと、仕事を上がる時間はまだ明るく、それがすごく開放感があります。明るいだけで少しウレシイのです。だから、春も秋も冬もそうすればいいじゃん、と。冬なんて4時半ぐらいに上がればいいと思うんですけどね。

その代わり、夏は目いっぱい働けばいいんですよ。夏は7:00出勤、18:30退社、冬は9:00出勤、16:30退社。春秋はまた別途決めてください、っていうことで。。

夏、冬でメリハリがあって、いいじゃないですか。新しいサマータイム案ということで。。

自営ならイけそうな気もしますが。。自分が社長になれば。

再録・継続

  • 食べ物の好き嫌いは意味がない(20070301)

二十歳過ぎぐらいで食べられない食べ物というのがすっかりなくなりました。今は完全にクサっているもの以外は食べれます。

今考えると、あの頃、食べ物が好きだ、キライだ、なんてちっちゃい話だなあ、なんて思っていたのでしょう。今でもそう思っていますが。。たとえばトマトを「ダメ、ゼッタイ食べれない」と他人に声高に主張されても、「だからなんなの」と。「それがあなたのこだわりなんですか?」と。

自分は会社組織というものになじめないので会社員ではないですし、通勤ラッシュがイヤだからラッシュを避けることができる都心に住んでいます。

食べ物の好きキライとか、外食のこだわりとか、そういうものに大げさに拘泥している人に限って、会社組織に飲み込まれ、通勤ラッシュに耐えに耐え、そのことを飲み屋でグチをこぼしていたりしていませんか? 食べ物へのこだわりの話と一緒に。

大事なのは、ホントに心からキライなのはナンなのか、何をポリシーとして守るのか、の見極めでしょうね。そしてホントにキライなモノ、コト、には努力して、お金をかけてまでなるべく近寄らないようにすることです。それが人生の知恵です。これは「逃げ」ではないのです。社会に対する義務を果たしているオトナは、キライなモノ、コトから逃げてよい。

逃げられないのであれば、出来うるかぎり「キライなモノ、コト」となあなあの関係にならないことです。

(再録おわり)

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 言わない世の中

言わない世の中でいいのですよ。
多くの人が、他人と干渉しなくともよい世の中を望み、それが実現されてきているのですから。

たとえば、ケータイでウルサいヒトとか、ウォークマンでウルサいヒトとかに、注意しなくたっていいのです。注意しないことを責められることもないし、自分を卑下することもないのです。

ただ、無視すればいいのです。
それが何が悪いのでしょうか?

あとでこっそり投書してもいいし、ネットにグチを書き込んでもいいではないですか。

それを正面切って「悪い」といえるヒトは、偽善者でしょう。
なぜなら、「悪い」という意志を、本来悪いコトをしているヒトに対してではなく、言いやすい傍観者に言っているだけですから。

そういうヒトの意見すらも、無視してよいのです。
それで何が悪いのでしょうか?

抜粋・紹介

私は、河合隼雄さんが最近亡くなられていたということをついさっきまで知りませんでした。最近この方の対談を図書館で手にしたのは、完全に偶然です。

仏教が好き!

仏教が好き!

「河合 (略)知恵とか、あるいは知という存在を近代は全部否定したんですよ。近代というのは、平板的な、「いわゆる」付き普遍的知というものだけが知だと思い始めたわけでしょう。仏教のお経だって同じで、いわゆる学問的態度でお経を研究しても、わかるはずがないとこのごろ僕は思っているんです。(略)これから現代の学者も身体性について配慮しなければならないし、そもそも現代人全体がそのことに目を開く必要があると思いますね。
中沢 その意味では、僕は禅の語録は非常にすぐれたものだと思うんです。禅僧とその弟子の対話で、よくわけのわからない話がいっぱいあるでしょう。どの話もよくわからない。それを学者たちはいろいろと解読したりして、ここはこういう意味だと解読して見せるんだけど、僕は、この禅語録をつくった人たちの意図は違うのではないかという気がする。あれを読むと、質素な暮らしをしていた先生と弟子の、たとえば廊下の一瞬のすれ違いの瞬間みたいなものが感じられる。そのとき、ふたこと、みこと言葉が交わされる。そのとき、散る火花というんですか、それが禅語録には見事に記録されています。しかも、その言葉ひとつひとつに解説を加えない。言葉の汚染を防ぐために解説しない。(略)僕は、仏教のお経とか、論理学の本とかよりも、ある意味では禅語録のほうが、はるかに仏教の精神に近いと思います。
河合 (略)禅語録的な火花が散るようなネイティヴ・アメリカンの人たちの神話的体験は、要するに言葉になりえない。(略)
中沢 しかも、神話は語られるだけじゃなくて、お祭りの季節には、インディアンは、神話に語られている先祖と同じようなルートで巡礼したりします。(略)」


「河合 (略)神の声を聞いたときに、それが絶対に正しいとは思わないところが、いわゆる宗教とは違うところですね。
中沢 そうですね。ですから一神教のそういうものを信用すると、世の中がすごく陳腐なお話になってきますよね。(略)
河合 その一神教の流れが自然科学なんですよね。みんな、それだけを信じているわけです。
中沢 河合先生はこのあいだ新聞に、神様はたくさんいるんだということをお書きになっていましたね。人間の無意識のなかにいろいろなパターンがあって、それはみんな神様だと。これはもうほとんど密教の考えでしょう。僕は神については、ああいう考え方のほうが正しいと思うんです。人間にはみんな神様がいますし、ひとりひとりのなかでも神様は一人ではないわけですよね。(略)
河合 (略)そういう一神教の申し子として出てきた科学がやたらに強いので、みんなその世界観にやられていくわけです。われわれが夢を大事にするというのは、そういうトレンドに対する反逆だと思うんですね。(略)」

「中沢 (略)今、アメリカのチベット学者のほとんどはユダヤ人なんです。その人たちは非常に頭がいい。(略)けれどもチベット人のお坊さんたちに言わせると、あの人たちはわかっていないという点があるんです。重要な一点なんだけれども、それがわからないんですね。僕が見ていても、たしかにそう思うんですけど、彼らと話していて、頭がいいかわり霊性が低いんだということがわかります。
河合 知性が高いからね。
中沢 ええ。(略)神の世界とかがわからないんです。それで、あの人たちはひそかに劣等感をもっているんです。ところがチベット仏教というのは、システムがあるということを知って、自分たちは霊的な想像力はないから、このシステムを徹底的に勉強してマスターしていけば、アジア人が霊性と呼んでいるものに自分たちもいつかは辿り着けるはずだというのが潜在的にあって、一生懸命勉強しているんだなあということを感じました。
河合 知性の極みとして霊が出てくると思っているわけですね。ぜんぜん違うのにね。
中沢 そうなんです。(略)どこがわかっていないかは、僕もよくわかるんです。それはうまく言葉で言うことはできないんですけど、知性と霊性の大きな問題に関わっているところです。今日の文明は、やはりユダヤ的な知性が大きくリードしてつくられているわけで、そういう世界の中では、ユングのように霊的なものを大事にする人たちというのは、頭が悪いと言われるわけですね(笑)。」

「河合 (略)ユングは自分で自分の塔をつくったときに、煉瓦工の職人のギルドに入るんです。スイスでは、個人でも勝手に煉瓦積みなどをしてはいけないんですね。煉瓦積みをしたいものは煉瓦積み工のギルドに入らなければならない。それで、試験とかいろいろあるんでしょうけど、ユングは入れてもらって、そして自分で煉瓦を積んであの塔をつくったわけです。
中沢 いい話ですねえ。
河合 結局それは夢を見るのと同じことでしょ。(略)夢もそうやって断片をつかまえていると、あるときふと、ひとつの作品というか、「あ、これだ」と思うものが出てくるんですね。これは断片だと思って待っていると、だんだんつながってきて作品になる。ところが、断片が出てきたときに、へんに慌てて解釈しようとすると、そこで終わってしまうような気がするんです。
(略)チベットでもいろいろ段階があって、ずっと行くわけですね。そういうチベットの言っている段階と…。つまり、みんな段階というのは好きですから、フロイトにしても発達段階ということを言いますし、ユングもそれなりに言っているわけですが、なにかひとつのステップがあって、だんだんいわゆる自己実現なるものをしていくようなイメージをもつわけでしょ。けれども僕は、どうもそれあやしいと思うんですよ。そんなものではないと。
中沢 チベットの場合、グレードを踏んでいくのは技術の体系だけであって、すべては最初から完成されているものなんです。
河合 やはりそうなんですか。
中沢 そこから出発しますから。もともと人間の心は最初から完成しているものなんです。(略)人間の魂は段階によって複雑にはなりますけど、正しいものにはなったりしない。
河合 その段階というのが、一神教の論理と一緒なんですよ。一神教というのはひたすらまっすぐに、直線に行きますよね。(略)
それと、われわれが夢の分析をしているときには、修行の人と違って現実生活をやりながらやっているわけですね。ですから僕は、上がってみたり下がってみたり、それもけっこうというふうに考えてやっているわけで、そんなに段階的に考える必要はないと思っているんですけどね。
中沢 僕もそう思いますね。
河合 ただ、だんだん深くなるというか、そういうことはいえますけどね。
中沢 修行者だって、山の中に籠ってやっているうちはいくらでもできるんですよ。人間の心というのは面白いもので、とことんまで行けるんですね。いちばん問題なのは、やはり戻ってきたときなんです。
河合 そうでしょうね。
中沢 その時に見ていたものを、この現実生活のなかでどうするのかということが、いちばん大きい問題なんじゃないでしょうか。ですからそのためには、現実というものがどういうふうにつくられているかということを徹底的に分析する。これは本当に科学なんですね。徹底的な自由と言われているものから僕たちの世界がどうつくられているかということを、まずよく理解すること。それから、日常生活のなかで、いつでもそれを適用できる訓練をするわけです。日常行動とは違うところから自分を見る訓練をさせるんですね。つまり、一種のアルター・エゴをつくるんでしょうね。アルター・エゴの場というものを、修行の中で体験した意識の自由状態というものと合体させてゆく訓練をしてゆくということだと思います。
河合 (略)森の中ではすごく素晴らしい人でも、降りてきてガタガタということもあるんじゃないですか。」
中沢 ほとんどそうなんじゃないですか。それが怖いから、みんなお寺に籠っているわけです。
(略)たとえば密教行者の人たちは、お寺の中に籠っている出家したお坊さんのことを、たしかにいろいろな戒律を守っていて偉いとは言うけれどお、一方では大したことないと思っている部分があるわけです。(略)本当に大変なのは、日常のそういう暮らしのなかで、自分が体験したものと全体性をもって生きることができるかどうかということなんです。それが恐い人は、お寺に籠っているほうがいいと。
河合 なるほど。いい話を聞いたなあ。
(略)自己実現の「道」というけれども、その道を本当に味わっている人は、僕は道草をくっている人だと思うんです。道草をくわずにまっしぐらに自己実現しようと思うと、現実生活には帰ってこられない。(略)
中沢 僕なんか、ずっと道草をくっているようなものですからね。
河合 道草こそ、道をいちばんよく知るという立場なんです。道草をくっていない人は道のことなんか思っていないですよ。目的だけを思っているんです。道草する人は、道草を楽しんだり苦しんだりしているわけですから。
中沢 (略)自己実現という目標を立ててそこに向かってまっしぐらに行ってしまう人というのは、ファンダメンタリストになるんです。」


「中沢 (略)社会主義というのは面白いなと思うんですよ。セノイの夢理論にけっこう近いことをやろうとしたわけでしょ。神の手みたいなものが動かしているけれども、これをなんとか人間の意識でコントロールしようとした。けれどもそのコントロールする力にかなわなかった。湧いてくる力が強すぎて。
河合 それと、セノイの場合は湧いてくる力に任せておくわけでしょ。それを自分でコントロールしようとして、失敗してしまったわけですね。
中沢 (略)社会主義というのは、なくしては駄目だと思います。そうしないと夢分析が不可能になってしまいますからね。現代という悪夢をどうやって生きていくか…。ただ、今まであったあんな社会主義はだめだと思うんです。あたかも自分が夢のなかにいないかのように思い込んでいるわけでしょ。
河合 そうです。ああいうのはみんあ、自分をみんな神の座に置いているわけですから。
中沢 やはり自分も夢を見ているんだという立場でないと。そして、この悪夢をもう少しいい箱庭にしたいとかね。そういうぐらいのところに変えていかないと、ファンダメンタリズムの幻想から抜け出せないです。そのためには、やはり職人の発想みたいなものが大切です。自分は素材から離れていないということ、手がペタペタくっついている状態で知性が働いているんだということを忘れないようにしないとだめですよね。
河合 箱庭というのは、大人に土を触らせているだけで治療効果が出るんですよ。
(略)あれでペタペタやってるうちに、だんだん面白くなってきて、こちらがなんにも言わなくても治るんです。僕はあれは、自分で夢を見て解釈しているのと同じだと思うんですね。
中沢 (略)昔の田舎のお母さんたちがボン・サンテ(良識)をもっていたのは、彼女たちがパイをこねていたからだと(笑)。そういうのって、僕は正しいと思うんです。
河合 けれども、現代の日本ではパイつくり的作業を捨てるほどいいというか、捨てた分、知性を磨こうというふうにどんどん行っているでしょ。受験勉強はその最たるものですけどね。」
(抜粋・紹介おわり)