元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

死と宗教観2 河合×中沢 ジコチューと自己愛

本来の日記部分

まとまった休暇のときにやりたいことって、どうしてもインドアになってしまうんですよね。。
具体的には読書なのですが。あとはせいぜい、出かけるとしても23区内。B級グルメ開拓とか。。
まとまった時間がとれるから、さあ旅行に行こう、というのはちょっと違うというか。。
まず、日常生活を送っているとmyTodoリストがたまってくるので(すみっこを掃除する、とか。。)、まとまった休暇のときはまずそれを消化しなければなりません。とはいってもTodoリストは「やらねばならない」と「やりたい」がごっちゃですが。。 消化しなければならない、に変わりはありません。


旅行に行ったりアウトドアしたりするヒトたちは、Todoがたまっていないのだろうか? あるいはTodoに対してほっかむりして、見ないようにしているのだろうか? 「せっかくの休みなのに家のことなんかやりたくない」という感じでしょうかね。

もしそうなのだとすれば、だから、いつまでたっても人生が消化不良な感じなのではないでしょうか。
「逃避」臭がするんですよね。自分の行動に「逃避」の要素が少しでも含まれていると、ダメなんですよね。不満足感が少しずつストレスになってゆく。。

  • 体調

眠いです。。 睡眠不足蓄積中ですね。


自分について

  • ジコチューと自己愛

自分は、世の中のことをテレビなどを通して知る行為よりも、自分のことを考えているほうがよっぽど大事だと考えています。が、テレビと生活を切り離すことができないヒトたちの大部分よりは、自分は「ジコチュー」ではないという自負があります。
つまり、自己愛と「ジコチュー」は違うのだろう、ということです。

また、「自分のことを考えている」といっても、それは「自分探し」をしているわけではなく、「自分探し」をしているヒトはほぼ間違いなく「ジコチュー」でしょう。

  • あらためて死と向き合う の続き(死と宗教観2)

いちど「死」が間近に近づいてきたという経験が、自分が安易に「無気力」に取り込まれない、という事実に何らかの作用をしているような気がします。でもそれは、いったいナンなのだろうか?


ただ単に、「人生、時間は有限なのだからよりよく生きなければ」というのとは違うというか、違うことはないのでしょうが、もっと深いところというか。。


宗教観(あるいは、死生観)など意識せずに、楽しく「それなりに」生きてゆければよいというヒトはたくさんいます。

が、この「悪夢のような」現代社会で「楽しく」生きてゆくためには、ヒトはいかに死ぬべきか、そしてそれとセットで(対極という意味ではなく)いかに生きるべきか、を考えなければなりません。

何度も書いていますが、楽しく生きたい、という考えには基本agreeなので、アナタがいつ、どうすればアナタの人生が楽しいものになってゆくのか、箇条書きにしてゆけばよいと思います。

個人が「楽しい」と思う基準は極めてパーソナルな問題ですので、本来他人が立ち入ることはできません。


そして、マニュアルもないはずなのです。
最大公約数的なマニュアルに従えば、「それなり」の人生にしかならないのです。

が、最初から楽しく「それなり」を志向しているヒトにはいいのかも。。

それでもまあ、オリジナルとして、マニュアルをカスタマイズしてゆく必要はあるでしょうね。


日本が物質的に豊かな社会になり、それを享受している人間が激増しているのであれば、仏陀が、豊かな生活を経過しなければ悟ることができなかったように、市井の生活の中である程度の「悟り」を得ることができる、というか、まずその資格を得た人間が増えることは間違いないでしょう。

そのはずなのですが、その過程で新興宗教のほうに紛れ込んでいってしまうと、少なくとも、豊かな社会を経過した結果としての「悟り」を得ることはできません。

これは、間違いのないところです。

それはなぜかと考えるに。。 まず、「依存」というキーワードがアタマに浮かびますね。。


高みにいけるはずなのに、スピリチュアルだのなんだの、のほうへ逃げ込む。。
逆に、この世の中そんなにツラいですか? と問いたいところですが。。 自分を極限に追い込む、などもしていないのに、なぜ? と。
現実から、そういう精神世界のまがい物みたいなところに「逃げ込む」姿勢すらファッションなのでしょうけど。


「逃げ込む」といえば。。
「自分探し」の旅の途中のヒトほど、探しているクセに、自分を「見つける」(すなわち、「自分探し」をやめる)ためにもっとも有効な手段である自分の「相対化」「客観視」という唯一かつ確実な手段から逃げているわけですね。

ですから、いつまでも逃げ込んでいるのではなくて、とにかくそこまではいってもらわないと。「相対化」に着手するぐらいはしてもらわないと、そういうヒトとは話すらできないのです。
そういうヒトたちのサークルの中で傷を舐めあう話をするのは勝手ですが。。


そういうヒトたちに接近する「カウンセラー」を自称するヒトたちも、相当アヤしいですけどね。ある意味同類でしょうね。


自分を探しはじめたらもう戻れないでしょう。探している途中だ、といっといたほうが楽ですから。。
これも麻薬のようなものですね。

抜粋・紹介

仏教が好き!

仏教が好き!

「河合 科学は、言ってみればわれわれの通常の意識を非常に分割して、切断して、分けていってるんです。(略)ところが、宗教のほうは、むしろその逆でね、特に仏教は、みんな融合させてゆくわけでしょう。そういう体験を推し進めた上で、どのように世界を見るかという。僕は仏教の追求した意識は、近代科学と逆のほうに行ったと思います。近代科学は分割するほうの先端までいって、仏教のほうは、存在全部一緒というところまで行くわけでしょう。このように対立する二つのものを共に持って賢治は生きてた。賢治は比喩的に言うと、通常の意識から下へ下へと下りていく。で、上がっていくといわゆる分割するほうですね。下に行くとみんなずっと一緒になって、人間も動物も物も全部一緒になっていく時に、下りていく時も、まだ分けてものを見る厳しさを賢治は持っていたんじゃないかと思うんです。だから、下に下りていったらものが言えなくなるのに、彼は言えてるわけです。(略)『銀河鉄道の夜』がその最たるもんで、あの中にもありますよね。(略)科学がほんとに発達してきたら、第三次稿にはあって、第四次稿にはなくなっている『信仰も化学もおなじやうになる』というとこがありますね。だから、賢治にとっては、宗教と化学という対立しているものを、一身の中でひとつにしていったという見方で僕は賢治を見ていたんです。」
「中沢 (略)宗教っていうのは、その先にあるものだと思いますね。宗教というのは、複雑系の底の底まで行った時、それがきわめて単純なものであることを見出して、同時に科学を探求していった時に、それはもっとも複雑なものを生み出し得ることを同時にとらえる視点です。だから、詩的な思考法と宗教の思考法は、同じ方向性を向いている。宮沢賢治がなぜ宗教に接近しているか、彼は詩的言語を駆使して、(略)詩的言語の吸引されてゆく先にあるものは、おそらくは人間が宗教という形でつかみ出そうとしてきたものでしょう。たぶん宗教と科学は、この意味で言うと、対立などはしないんじゃないか。新しい科学の形として、詩的言語の方向へ向かい、ヴィトゲンシュタインが言ったように、あるいはアインシュタインが考えたように、科学は芸術に近づいていきます。単純系と複雑系をひとつのところへ絶対矛盾の自己同一化させてしまうようなものはつくり得る。その先に宗教という、より究極的なものがあるんじゃないか。宮沢賢治は科学と文学と詩と宗教というのを、こういう構造でとらえていたことが、おそろしく先駆的な鋭いものだったと僕は思うんです。」


「中沢 抑鬱に悩んでいる人は、自分の心の中に空虚を抱えている。自分がこの世の中で無価値な存在なんじゃないかって。自分のしてることに価値を見出せなかったりすると、買い物をしたり、お勝手仕事をしたりという日常生活のルーティーンに、意欲を失っていきます。その場合の自分の内面の空虚というのが、箱庭療法の最初の時期にあらわれてくる、混沌とか…」


「河合 近代になって、その空虚感からのデプレッションがかなり多いです。
中沢 明治時代や江戸時代の女の人は、たしかにデプレッションというか、抑圧の中に生きてはいたでしょうけれども、この種のデプレッションとは違うものがあったような気がします。
河合 抑圧の中に生きてるからといって、抑鬱にはならない。
中沢 もっと近代に特有の空虚感が、この背景にはあります。
(略)河合先生はどう思います? 日本人には教会というのは必要でしょうか。
河合 (略)僕はあまりいらんと思いますね。
中沢 お寺で十分ですか。
河合 と思いますね。お寺もなくてもいいぐらいですから(笑)。
中沢 だけど、河合先生の本質はルビーだって見抜ける思考、方向づけていく思考が必要でしょう。
河合 そうですね。
中沢 そういう思考は宗教と同じものを通過しているなと思います。距離を発見しようとしてるなとか、分離しようとしてるなという思考、それはちゃんとした宗教に特有の思考ですもの。ちゃんとした宗教を通過していくというのは、日常の人生の空虚感を抱えて、それを意識して自分の内部から分離できるかにかかっているように思います。
(略)その空虚のところを、別の真理とか、御教祖様への信仰なんかで埋めちまえば、まあ金もうけもできるふつうの宗教はできます。しかしそれをこえて自分は空虚の中に浮かんでるああいう帽子みたいなもんだという理解をあたえることができれば、宗教として最高のことができているんだと。
禅宗なんかが、悟りと言っているのがそれだと思います。禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという「わざ」を教えている。「空」が、自分の目や鼻から出入りしている、そういうふうにして、自分はあるということを知ることです。ですから、悟りを得るといっても、完全解脱とか、絶対幸福の中に移ってしまうのは、まだ宗教としては未熟な、途中のものだと思います。宗教はそれをこえていく必要がある。自分のかかえる空虚をちゃんと心の中で計算して、距離をうまくつくりだすことができれば、それで人間ができることとしては十分なんだということしか禅は言ってない。しかしそれが言えるということが宗教の究極なんじゃないかしら。(略)宗教、宗教といっても、僕はやっぱりそっちへ抜けていくものがない限り、そんな宗教は意味がないと思うんです。」
「河合 (略)僕がいちばんやりたいのは、コドモの宗教性ということですね。(略)
中沢 (略)五十歳ぐらいの奥さんが陥っているデプレッションに、今の若い子は、かなり早い時期から陥らないような工夫をして生きているような気がするからです。世の中に何も期待しないというやり方でね。現実に期待しない。(略)
河合 無気力学生は、いま言われたように、デプレッションじゃなくて、もう関係ないんですね。なんにもしない。それだけでしょう。(略)」
(抜粋・紹介おわり)

  • 誰が尻拭いするのか?

精神的にイヤになって仕事(ルーティーン)を投げ出して逃げました。精神的にイヤなので部屋の片付けはしません。家の掃除もしません。

じゃあその尻拭いをするのは誰なんだよ? と。
カンタンに逃げ出しすぎの世の中ではありませんか? と問いたいわけです。


尻拭いするヒトはかわいそうではないのですか? 尻拭いするヒトも精神的にストレスがたまるのではないですか? それは見てみぬふりですか? 逃げ出したもん勝ちですか? と。


そんなに「なんちゃって精神的病」が大事かよ、と思ってしまいますけどね。まあそれは大事なんでしょうけど、現代社会はそっちのケアに比重がフれすぎていて、肉体的現実的に頑張っている人間の努力が無になってしまう危険を孕んでいますので。


抑鬱なので身体が動きません、と。「ああ、世の中には抑鬱で身体が動かない人がいるんだ、じゃあ自分も『抑鬱』に違いない、今日から『抑鬱』ってことにしよう。そういう前提で心療内科にいって診断書でも書いてもらえば3ヶ月ぐらい会社休めるな。。」
と、いうふうに、利用されてゆくのです。神経症などを否定しているわけではありませんが、私は、世の中の自称神経症の8割以上は、自力でカンタンに更正できると確信しています。

単なる依存体質です。「逃げ込めるところには逃げ込んでおこう」と。
もっといえば、演技をしてるんです。ということを話すと、「演技なんかじゃない!! アタシは病気なの!!!」と胸を張って逆ギレしますからね。。

(自分は今、無意識で「アタシ」というコトバを使ったので、私は女性に対してこういう思いを抱いているようです)

そして、同じく8割以上は、親の育て方が悪かったと思いますね。


身体なんて、抑鬱だろうがなんだろうが、訓練すれば動くんですよ。もともと動かす訓練をしてこなかったのと、「動かない」と対外的に宣言しておけばラクですから、そのまま「更正」する訓練も怠ってしまう。


ますます不幸な人生になる。