元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

発熱 豊かな社会と豊かな自分  抜粋・紹介いくつか

本来の日記部分

  • 体調

昨日、「発熱はなさそうです」などと書きましたが、立派に発熱していました。本日は所用をこなしつつ断続的に床に臥していました。
自分は、連続的に床に臥して現実逃避するわけにはいきませんので。。

現実逃避のために「風邪」を定期的に利用するヒトは、自分にとって軽蔑の対象です。
そういうヒトたちのために自分がどれほど苦労させられてきたか、を思うと。。

再録・継続

  • 豊かな社会と豊かな自分

豊かになった社会における自分のミッションというのは、豊かな生活をすること、なわけですね。

それはコトバを替えれば、「豊かな生活」が一極集中されては困る、ということです。豊かになった社会、というのは、豊かになった社会「インフラ」ということであって、各自にとってみれば豊かになるベースが整っているにすぎません。社会が豊かになったからといって自動的に自分が豊かになるわけではないのです。それは、奇しくもこの日本が戦後、証明しているのです。

そして、豊かな生活をゲットするにはどうするか。。

お金があればある程度の豊かな生活ができる、という話は大前提で、誰もがうすうす感じているのは、富が集中しているところに「豊かさ」も集中しているとは限らない、ということです。なぜならば、豊かさには「幸福度合い」の尺度が絶対的に存在しているからです。

そして、その「幸福度」を上げるためには。。

これは自分は、方法は知っているのですが実践できていない、という。。

まず、「他人の芝生」をみないということ。

次に、自分の身の丈を知り、身の丈にあったゴールラインを(他人やマスコミに惑わされず)設定すること。何をもって自分が「幸福」を感じるか、というのは、自分でコントロール可能なのです。

これらを、知らないというか、うすうす知っていても目をそむけているヒトは多いですよね。

ここまでである程度の「幸福度」は得られます。庶民レベルの。。

「他人は他人、自分は自分」を徹底して、身の丈にあった生活をしていればけっこう幸せなのです。ただし「ヒトはヒト」を徹底していないとすぐに邪念が入ってきます。それは生活レベルという上での「競争意識」のようなものですね。

その邪念をコントロールするのは、この現代社会ではけっこうたいへんかもしれません。



これらは自分はけっこう以前からわかっていたのですが、これにプラスして最近とみに考えるのは、「幸福度」を上げるためには自己節制も必要なのだな、ということです。

自分が「豊かな人間」にふさわしいヒトになるべく努力するということです。これが、次の段階なのでしょうね。

「『豊かな人間』にふさわしいヒト」になるためには、自己節制できるというのは絶対条件です。それを、わかっているようで、わかっていなかったような気がします。

その「『豊かな人間』にふさわしいヒトになる」手段は、お金を積んで経験を積むとか海外旅行に行ったりするとかそういう今流行りの「自分を磨く」とは全く異なるベクトルにあります。そういうところから脱却できていないひとはまず前提である「『他人の芝生』をみない」というところからやり直しです。そういうヒト、多すぎますよね。

「自分を磨く」は、後工程です。自身が豊かになっていないときのそういう経験は、所有欲、金銭欲などを膨張させるだけで、ほとんどムダかもしれません。ある程度の節制がなされ、「豊かな人間」にふさわしいヒトになった後には、有効であり、黙っていても自分は磨かれてゆくことでしょう。

(子供は別ですよ 子供はわけのわからない段階でのそういう経験は必要かもしれません)

投資の考え方と似ていますよね。。 余裕資金があって精神的に「豊か」であればあるほど、お金は勝手にたまってゆく、という。。

そう、そして、お金の話はまたその後、最後の段階なのです。

自己節制の中には、お金の節約もあるでしょうし、仕事上での節制という考え方もあるでしょう。そして、そういった節制がある程度なされ、「豊かな人間」にふさわしいヒトになってからお金のことを考えてもよい、ということです。「『「豊かな人間』にふさわしいヒト」というのはつまり、まだ「豊かな人間」にはなっていないということですね。

ヒトとしてのベースができてから投資等について考えてもぜんぜん遅くないでしょう、と。むしろ「満を持して」ということで、成功の可能性が高まるのではないかと考えます。

世の中の大多数のヒトが間違っているのは、今自分が書いた3番目をすっとばしてお金のことを考え始めるところです。3番目とは、自己節制のところです。一見、投資には周り道のように見えるこの「自己節制」が、最も大事になってくるかもしれないのです。

まあでも、その前に。。 大部分のヒトは3番目をすっとばすどころか、その前の1、2番目すらすっとばしてますけどね。。1、2番目とは ・「他人の芝生」をみない ・自分の身の丈を知る です。

だから政治家などに「庶民」とかいわれてバカにされ、「庶民にはわからんだろう」とすっとムチャな法案を通されてしまったりするのです。自分はそれが悔しくてたまりません。


他人よりもまず自分、という考え方を利己的だの自己中心的だの非難される時代もありました。今はそんな言説は無視できる時代になってきているでしょう。

抜粋・紹介

  • 斎藤一人さんのメルマガ 「冒険と安定の中間」

成功っていうのは、冒険と安定の中間にある、ど真ん中の車線、唯一、この一本を走るということじゃない。細いなりに幅があって、その幅のなかをあっち行ったり、こっち行ったりしながら、たえず微妙にゆらぎながら走ってる。
(『斎藤一人の不思議な「しあわせ法則」』(大和書房)より)
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斎藤一人さんは「ほとんどの人は、冒険しすぎて火炎地獄に入っちゃうか、何もしなくて氷地獄に入っちゃうかのどっちか」だとおっしゃっています。成功するためには、冒険しすぎても消極すぎてもダメで、中道を走ることが必要なのだそうです。
ただし、自分では中道を走っているようでも、成功していない場合には、道がはずれてしまっているようです。
成功の流れに乗っている人は、ジェット気流に乗っているようにどんどん成功していくのだといいます。
常に中道を走れるように、意識していきたいものですね。

車中、
猪瀬直樹「ラストチャンス」読了。風邪薬のくだり。

僕が駆け出しのころに、知り合った幾人かのライターは自分には能力があると勘違いして、絶えず飲んでばかりいたが、みんな消えていった。当たり前である、仕事をしていないのだから。市場での自由競争となると毎日が仕事だ。毎日原稿を書かなくてはいけない。それからまた飲む。そしてわずかに寝てまた起きてやる。こうやって厳しさを、厳しいと思わずにやっていかないと市場社会から脱落するわけだ。とても風邪なんか引いてられない。風邪など根性でなおる。実際に風邪薬は3倍飲むと治る。僕ぐらい年配の人は知っていると思うが、昔、お尻にペニシリンを打ったら一回で治った。しかし、10万人に一人くらい死ぬことがあった。 (中略)
10万人に一人くらい死ぬがそれくらいのリスクを覚悟を決めて生きていると平気になる。


自己責任について、書いている話だが、業界人で、しかも締め切り仕事も多い俺も、風邪で休めるわけもない、俺には、ここで言わんとするところ、よ〜 くわかるが、それでも、この記述は、揚げ足をとられるのでは……と心配になる。
ま、俺は、サラリーマンをやったことがないから、今、言われてる、痛みを伴う改革の痛みに、鈍感だ。それでも、なんでも政府のせい、政治のせい、で、語る生理がよくわからん。ずっとノンポリだったことも大きいが、政治が悪い〜なんて、国民の声をもったことが一度もない。さらに言えば、「売れないのは事務所が悪い」って飲み屋でくだを巻く芸人を見るのも、昔から、不思議でしょうがない。
てめぇが悪いか、才能がないに、決まってるじゃん。

僕はいろいろなところで人に聞かれるんだよ。『楽しきゃいいのか?』って。
いいんだよ。そのかわり、楽じゃないんだよって。漢字で書いたら同じじゃんって。
でもね、楽しいと楽は違うよ。楽しいと楽は対極だよ。
楽しいことがしたいんだったら、楽はしちゃダメだと思うよ。
楽しいことがやりたいと思った時点で、楽な道からはそれるんだよ。その人は。
だって、おおこれもやりたいって、楽しいことを実現するためにはもう忙しいってなるじゃん。
寝てる暇なんかねーよって。
楽しようと思ったら、楽しいことはあきらめなきゃだめだね。
ただ、生活は楽なほうが絶対いいと思うよ。でも人生は楽しいほうがいいじゃん。

余裕がなきゃ駄目だよ。だから、僕は、飽食の果ての飢餓だと思う。
飽食の果ての飢餓が、ロックンロールにおけるハングリーってやつでしょ、
お腹が空いたハングリーとは違うぜ。
ハングリー精神っていうのと、貧乏は関係ないよ。
貧乏な人がハングリー精神っていったら駄目だよ。まず金稼いでから言えよ。
うん、ハングリー精神っていうのは、満ち足りてる人の中に芽生えるものだよ。
着るものもある、家もある、ギターだって買える。
だけどさ、足りねぇんだよ、これが、っていうのがロックンロールじゃん。
うん、貧乏人にはロックンロールはできないよ。

(抜粋・紹介おわり)
なんとなく、同級生の水道橋博士甲本ヒロトさんを一緒に載せてみました。