元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

落葉松

本来の日記部分

  • 体調

腰のどんよりとした痛みが若干残っていますが、生活に支障ないぐらいに回復。

  • 仕事

今のところ順調。すばらしいことです。仕事で、仕事そのもの以外のストレスを感じない状況というのは。

抜粋・紹介

禅と日本文化 (岩波新書)

禅と日本文化 (岩波新書)

「(略)仏教徒の修行も同じことである。その最高の段階に到達すれば、仏陀のことも、法(ダルマ)のことも、なにも知らぬ無邪気な子供と同じようになれよう。自己欺瞞からも、偽善からも、自由になる。しかるときは、不動智は、結局、無智であり−両者は二ならず、一である、ということができる。ここには、ある点に対して、ある点を選択する際に、人を躊躇させるところの、分別智というものがなく、したがって、無念無想という心境の熟達にとって有害な「止まる」ということが、どこにも存しないからである。無智の人は、智力をいまだ目ざまさぬから、素朴のままにある。賢い人は智力のかぎりを尽くしているから、もはや、それに頼らない。両者は睦まじい隣り同士である。「生ま知り」(ハーフ・ナレジ)の人にかぎって、頭を分別でいっぱいにする。」
「禅がまず知性と闘うのは、知性というものが実用には役立つであろうが、われわれが自分の存在をふかく掘り下げようとするのを妨げるからである。哲学はあらゆる問題を提供して知的解決を要求しようとするが、われわれの精神的満足はそれによって、かならずしも与えられぬ。しかし、何人も知識的にはあまり発達していなくても、精神上の安心はえなければならぬ。哲学の途はその傾向を具えている特殊の人々にのみ開かれ、一般鑑賞の題目とはなりえない。禅、さらに広くいって宗教は、人がその持っていると考える一切物を、生命をさえ、かき捨てて、最後の存在状態・「本住地」、または「父母未生前本来面目」に帰えることである。これはわれわれの誰でもなしうることである。われわれはそういうものによって、現在身をえているのであって、そういうものがなければわれわれは無(ナッシング)である。これを最後の単純化と称していいのは、物事をこれ以上単純な状態にかえすことはできないからである。(略)」


名作二編を、記録として残しておきましょう。特に「落葉松」はとても好きな詩で、暗唱できるぐらいです。(暗唱「できた」かな 過去形かな。。)

  • 落葉松

      一
 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。


      二
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。


      三
 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよふ道なり。


      四
 からまつの林の道は、
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。


      五
 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。


      六
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうへに。


      七

 からまつの林の雨は
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつの濡るるのみなる。


      八
 世の中よ、あはれなりけり。
 常なれどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
  南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多寳如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無釈迦牟尼
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩