ホントに「モッタイナイ」? 山本、岸田対談
本来の日記部分
- 体調
いやーホントに指の痛みがとれないですね。絆創膏も継続して貼っています。
- 仕事
2日間、現場に行った感触では、今までと比べてストレスがたまりずらそうなのでよかったです。
とにかく自分は、人間関係とかそういうしがらみではなくて、仕事の内容そのものでストレス(負荷)をばんばん与えてほしいと思っています。(マゾでしょうか?)
「どちらも」与えられたらたまりません。
人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師
- モッタイナイ?
「もったいない」「いつか使うかも」ととっておいても、現代社会ではもう使いません。
つまり、いつか使う「かも」と考えた時点で、もう使わないと考えたほうがよい。ある時期に必ず使う、という確証があるのであれば別です。
だから、捨ててしまったほうがいいのです。生活をシンプルにしてゆくためには捨てるしかないのです。
生活をシンプルにする、というのは進化するということであってムカシに戻ることではないのです。
捨てたものを受ける側、つまり、ゴミ処理の分野も進化しているのです。
なんでも「もったいない」ととっておいて部屋がゴミ屋敷になるのと、なんでもかんでもぱっぱと捨ててしまって部屋がさっぱりしているのと、どちらが「民度が高い」でしょうか?
このご時世、「もったいない」意識をあまりに過剰に働かせすぎると、自分の居住スペースがガラクタで埋まってしまうようになってしまうのです。そういう世の中なのですよ。
抜粋・紹介
- 作者: 岸田秀,山本七平
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1996/05
- メディア: 文庫
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「岸田 (略)神を持たない日本人に個人主義がどう映るかというと、利己主義に映る。実際、神という歯止めがないんだから、近代的自我はそのままエゴイズムになってしまうんですね。とにかく自分ひとりのため、ほかの人がどんなに傷つこうが損しようが、自分の快楽や利益さえ確保できればいいという主義になってしまう。個人主義を日本人が嫌うというのは、そこです。必然的にエゴイズムに移行する個人主義を無制限に認めていたら、秩序が成り立たない。集団にとってキケンなんですね。」
「山本 (略)民法というのは、どこの国でも、その国の伝統的な慣習法を合理的に体系化したものであって、イスラム法を訳して日本に施行したら大変なことになるわけでね。これと基本的には同じことをやった。日本における法律と、伝統的文化的規範とは、どこかズレているんです。だから、日本人はなんとなく法律を信用してないでしょう。
岸田 日本人はなかなか告訴しないですね。(略)
山本 (略)裁判への一種の偏見があるだけでなく、まず、「話し合い」の民族ですからね。(略)伝統的規範に従ってやって、ちっとも悪くないつもりが、法律的には悪いというケースはいくらでもあるわけですね。それをたくみにひっかけたり、ごまかしたりしたのが当時の代言人、すなわち弁護士なんです。これが、ずるいことをやる人間だという意識から軽蔑の対象になる。要するに伝統的規範と法とが、乖離しているからです。
岸田 だから、この間隙をつかれると、かんたんに詐欺にひっかかる。相手は伝統的規範で押してくるし、あんまり何度も頼まれたからという、相手に対応する倫理でハンを押してしまう。その挙句、法律に裏切られるわけです。だから日本人にとって法律はつねにうさんくさい。
山本 そのかわり犯罪の件数はというと、日本はきわめて少ないんです。これは日本の社会が共同体だからなんですね。共同体の崩壊は必ず犯罪につながるわけで、いわゆる機能集団だけで、共同体がなくなっている社会では、犯罪がいくらあっても不思議じゃない。(略)」
(抜粋・紹介おわり)
そのムカシ、この対談本を何気なく読んだことから始まったのでしたか。。 この2人の本をそれぞれ読むようになったのは。。
トリガはもうおぼえていません。
先日図書館にいったときに、懐かしかったので借りてみました。