「馬鹿らしいと思う」問題に決着を
本来の日記部分
- 体調
そういえば、1週間以上、指が軽く痛いです。外傷というか。。
コドモの頃に、小さなトゲが指に刺さって、中に埋まってしまって、でも面倒くさいから放置しておいて、それでずーっとわずかな痛みが指に残っていて実は気になっている、という状況に似ているのですが、トゲが埋まっているようにも見えないし。。
とりあえずやっと、絆創膏を貼ることに。行動遅すぎですね。
- 「正直ものがバカをみる」「馬鹿らしいと思う」問題に決着を(【重要】マーク)
「迫害」に近いと思いますね。「正直ものがバカをみる」状況というか、「民度が低いヒトたちのやったもん勝ち」という状況は。
それは確かに、こんな薄甘い状況では、「民度が低いヒトたち」が跋扈するようになります。
たとえば、節制をする。あるいは、ヒトに迷惑がかかるだろうなと思って自粛する。
そういう人間が「バカを見る」世の中になっていっている、ということに警告を発したいですし、そういう意味で昨今世相は相当マズいことになっていますし、今後ますますマズいことになってゆくであろう、という悲しき予感があります。
案としては、警察業務を民営化して、民間に委託して、民事に介入してもらう他ないと思う。
民度の低いヒトたちが跋扈する世の中(現にそうなり始めていますし、今後はますますそうなってゆくでしょう)
に対して、私含めて民度を高くありたいと願うヒトたち(実際「民度」が高く保てているかどうかは別です)が、「馬鹿らしい」と感じるのは自由である、ということをずっと書いてきたつもりです。
民度が低いヒトたちの矯正にコミットするのは馬鹿らしい。どうせ直らないのだから、そんなことの労力を使うのは馬鹿らしい、と。
「馬鹿らしい」と思い、コミットしないこと、無視すること、関わらないようにすること、が、何が悪いのか、と。
高度資本主義社会では生き方を選択できます。ということは、資本をもって関わる人間を限定することも許されるはずです。
ところで、「コミットしない」イコール「沈黙」ではなく、今の時代は、このようなブログとか、マイメディアにグチまがいの言説を書き連ねてゆくことが主流です。
それも「何が悪いのか」ということです。
誰かがかつて「ブログじゃ世の中は変わらない」と書きました。
それでいいのではないですか。ブログは基本的に「趣味」の領域です。
世の中を変えようと思うヒトがブログという手段を駆使するのは、確かに方法論としては間違っているかもしれません。ブログを一手段として活用するのであればかまいません。でも最終的には、ホンキで何かを変えてゆこうとするならば「出てゆかなければ」なりません。
「馬鹿らしいからコミットしない」ヒトたちがインターネットにはけ口を求めるのは自然です。
それが「帰結」というか。。 そこから状況が進まなくとも一向にかまわない。矛先さえ確保できれば、それでよい。
そもそも、昨今の東京では、「馬鹿らしい」と思わせる人間が増殖するためのシステムが出来上がっているわけですから。教育からして、そういう人間を増殖させる手助けをしています。(これから変わるかもしれませんが)
そういうシステムが出来上がっているということは、「民度を高くありたい」と願うヒトたちは徐々に少数派に追いやられていく。
「馬鹿らしいと思い、コミットしない」というのは、少数派に追いやられてもかまわない、と言っているのと同じなのです。自分たちは自分たちのコミュニティでやってゆくから、「隅っこ」はくれ、と。民度が低いヒトたちは干渉しないでくれ、といっているわけです。
さらに言いたいのは、民度を高くありたいと願うヒトたちを、間違った平等主義で「引きずり落とそう」としないでくれ、と。実社会でコミットしようとすると、必ずその攻撃を食らうのです。
「いっしょに落ちぶれようよ〜」と。