元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

デカいものを所有することへの嫌悪 「逆切れチャンス」

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  • デカいものを所有することへの嫌悪(20070122)

とにかく、デカいものを所有したくないのです。代表的なものは家、車です。存在がデカい、という点ではペットも含みます。何せ生きとしいけるもの、ですからね。

責任をとりきれない、といいますか。。 いや、責任をとるよう、最大限努力することになるのでしょうけど。。 自分は、そういう状況におかれたらマジメにやってしまうだろう、というのは、わかります。それがイヤですね。時間ももったいないですし、それにより発生する精神的なストレスも、無用です。

ストレスというのはメンテナンスによるものでしょうね。家や車は、途中で壊れる。ペットは病気をする。そういうとき自分は、全力で復旧させようとするでしょう。「責任を感じて」。。

自力でメンテナンス可能なもの、そう感じられるものであれば、所有してもよいのでしょう。そこが自分の判断基準ですね。

たとえば土地のように、放置可能であればよいのでしょう。メンテナンスフリーで。

メンテナンスも金で買えればいいのです。それで何ら問題は発生しません。メンテナンスのフルアウトソースを含めた所有だったら自分のストレスもたまりません。(メンテナンス費用が莫大でなければ、の話)

メンテナンスを知人に託す、となるとそれはそれでまたストレスなのでしょうね。気疲れするというか。


じゃあなぜ、私以外の他人はデカいものをばんばん所有し、あるいは所有しようとするのでしょうか。

皆、やっているのですよ、メンテナンスを。

(再録おわり)

この時点ではだいぶ自虐的でしたが、今は考え方が違ってきているように思います。

「デカいものを所有する」ことにより責任が発生して、それをこなすことによりオトナになってゆく、みたいな風潮があると思うのです。

たとえば男性が家庭を持ちコドモを持つことにより「家族を支える」という責任が発生して「オチついてゆく」ように。それにくらべたらちっぽけなことかもしれませんが、「デカいもの」を所有すれば、それがデカければデカいほど、責任も大きくなってゆきます。

でもそれは、もともと責任を回避する傾向があるコドモが、成長してゆく過程で「デカいもの」を所有する必要があった、という話で、すでに責任が発生しているオトナについては、さらに「デカいもの」を所有して責任範囲を拡げてゆくかどうか、は自由意志に任されるのです。

「デカいもの」を所有することにより「快楽」が得られるのであれば、そうすればよい。ただし、それを維持するための継続作業が必要になります。
それを、月並みなコトバですが「責任もってやれますか?」ということです。「快楽の代償」として。
デカいものを所有すれば、そのデカさに比例して所有欲も満たされてゆくわけですが、そこで発生する維持のための作業を放棄する、あるいは、見てみぬふりをするヒトたちが最近、非常に増えてきています。


それともうひとつは、最近の日記のホットなトピックでありますが。。

自分が「デカいもの」を所有することになれば、「責任を感じて」それを維持できるよう全力で努めるのでしょうが、それに対して「押し付け」が発生するという話。

わかりやすいたとえでいえば(以前書いたかもしれませんが)
コドモが「ペットを飼いたい!」と親にねだるとき、親は「育てられるわけないでしょ? 自分で世話できるの?」と返します。コドモは、その時点では「ペットを飼いたい!」でアタマがイッパイなわけですから、その場しのぎで「やるやる! 自分でぜんぶ世話もできるよ!」と自信満々でいいます。それを疑っているわけではなくて、コドモはその時点ではゼッタイにやれると思うわけです。

かくして、親のほうが折れて、ペットを飼い始めると。。 案の定、コドモは自発的に「継続作業」が大の苦手ですから、いずれやらなくなってきます。
親も、最初は「自分で世話するっていったでしょ!」と怒り、コドモも渋々やるわけですが、そのうち親も面倒くさくなって自分でやるようになってしまいます。

で、悪いことに(?)親のほうがそのペットに愛情を持つようになったりして。。 その頃コドモは別なアソビに夢中です。

親が、頑なに「自分で世話するっていったでしょ!」と突っぱねてペットの世話を放棄し、コドモもやらない、という状況になるとペットは死んでしまいますよね。そこでどっちが折れるか、というと、理性を持つ親のほうです。まんまと理性につけ込まれるわけですね。
(このたとえでいえば、コドモはつけこんでる気はないのでしょうが。。結果としてはそうですよね)

「ココロがセマいヒト!」論にもつながってきそうですね。皆でペットの世話(「維持作業」)を放置して、仮に死なせてしまったとすれば、世間的には非難轟々であり、結局責められるのは親のほうです。


このたとえは親子の関係ですが、これと似たようなことが大人とオトナの関係性において発生します。そして、常に理性があるほうが折れなければならない。
この日記ではそれが「馬鹿らしい」と主張しているわけです。「馬鹿らしい」結果になるのは目に見えているから、このたとえでいえば、オトナ(「維持作業」をできそうにない)が「ペットを飼いたい! 自分で世話するから!」と言ったときには、意識的にか無意識かはわかりませんが、理性につけこむ気満々なわけですから、ゼッタイに折れずに完全ムシすべきなのです。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 「逆切れチャンス」を狙う

危うい均衡を保っている「日常生活」がイヤになりそうなのであれば、そうならないように先手を打たなければなりません。
おおよそ、どういう事象が発生すれば自分は日常生活がイヤになってくるか、というのは自分はよくわかっているはずです。それは主にやることをこなせずに「たまってくる」状態ですね。
たとえば、時間がない、とかやる気がおきない、とかあいまいな理由で部屋の掃除をできずにいると、部屋がだんだんとキタナくなってくる。そうすると実際、部屋の掃除をする時間ができたときにはものすごくキタナくなっていて、ますますやるのがいやになる、といったような。。

それだったら先手をうてばいいじゃないか、常に少しでも時間を見つけて、部屋がキタナくならないようコマメに掃除すればいいじゃないか、と考えるほう(自分ですね)が、今のご時世では少しズレている、つまり「正論にすぎない」らしいということを最近知ったのです。

世の中の趨勢として、日常生活がイヤだ、という状態に自分をおきたいがために、そして、それを外部にアピールしたいがためにわざとイヤな状況を発生させる、という「テクニック」があるということ。

つまり、「逆切れチャンス」を狙っているのです。ちゃぶ台をひっくり返して誰かに尻拭いしてもらえる状況を虎視眈々と狙っている。

そういうヒトが多くなってきそうだから、自分は厭世的になってくるわけですよね。
厭世気分と、「自分だけはそうはなるまい」「世の中捨てたもんじゃない」という思いとの闘いなのです。

世の中の趨勢としてそういう「気分」が大勢を占めるようになるのであれば、自分はもうその価値観からは完全に脱却して「主体的選民意識」を持とう、と常に考えているのです。