元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

昔のインタビュー(2) デカいもの

トピック(本来の「日記」部分)

  • 体調

かかとのひび割れによる痛みの件は一旦終了、ですかね。痛みはなくなりましたので今後は春まで、サボらずにクリームを塗るようにします。
それにしても最近、眠いんですよね。。 朝起きるときも眠くて躊躇するし、昼間も眠いですし。。
睡眠時間は確保しているつもりなのですが。。月に一度ぐらいはバク睡しないと身体のメンテナンスができないのかもしれないですね。

  • 読書

読むべき雑誌、本が周りに何もなくて、暇つぶしに困るときと、たくさんあってその消化に困るときと、両極端なような気がします。
今は、増えてきました。
積ん読」はしません。ビジネスと同じで、在庫を抱えておくのは非効率的ですし、何せ在庫を抱えておくスペースがありません。
図書館で借りて返却する、雑誌は読んだら捨てる、というのがいちばんです。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

「僕は思うんだけど、僕らはもう共闘することはできないんですね。それはもう個人個人の自分の内部での戦いになってくる。というか、もう一度そこの部分から始める必要がある。状況をどう受け入れるか、どう自分を異化させるか、そこでどのような価値観を作っていくか。ちょうど『羊をめぐる冒険』で「鼠」が羊を飲み込んだみたいにね。ひとりひとりが自分でそれを飲み込まなくてはならない。そこには共闘というものはないですね。シンパシーを感じあうことはできる。共感することはできる。でも共闘はできない。そういう意味ではむずかしい時代ですね。孤独な時代だと思う。〜」
−村上さんの小説に対してよく言われることは、登場人物が自分を取り囲む状況をひとまず受け入れて、そして自分の趣味なり感性なりでまわりに殻をうちたてていくということなんですが。
「趣味なり感性なりというのは価値観の末端というか、細部なんです。それ自体はたいしたことじゃない。でも、それでは価値観の本体がどこから始まるかといわれると、これは誰にもわかんないですよね。だからまずその縁の部分から始める必要があるんです。それを結局趣味じゃないか風俗じゃないかと言われると、僕としては困るね。」
−それは状況に対して背を向けるというのではないんですね。
「背を向けるというのではないですね。殻を作るというのもでもないです。」
−でも渡り合うのでもない。
「どう渡り合えばいいんだろう? 僕にやれるのは自分を個として確立しつづけることですね。さっきも言ったように、それを飲み込み、自分を異化し、そして価値観を検証する、それだけですね。限りなくそれをやってゆくしかない。そうしていれば、僕らはどこかにたどりつけるかもしれない。〜


自分は物語を紡ぎだすことはできないですし、それに意味を見出すこともできません。物語を構築してそこに自分の好きなメタファーをちりばめて。。それで? 自己満足に浸るのか、あるいはそのメタファーの集合体を他人に見せることにより何を得るのか?
でも書くことは好きです。書くことの中でも自分について書くことが好きなようなので、自己中心的という捕らえ方でもけっこうなのですが、「自分だけで精一杯」ということはいえそうです。
自分のこと、それと自分の周りで起こっていることは物語ではないけれど、それらを書き出し書き出し(掻き出し掻き出し)、整理整頓していけば、そのいちばん奥に眠っているのはひとつの「物語」なのかもしれない。。。? ホントにそうかな。。

自分について

  • デカいものを所有することへの嫌悪

とにかく、デカいものを所有したくないのです。代表的なものは家、車です。存在がデカい、という点ではペットも含みます。何せ生きとしいけるもの、ですからね。
責任をとりきれない、といいますか。。 いや、責任をとるよう、最大限努力することになるのでしょうけど。。 自分は、そういう状況におかれたらマジメにやってしまうだろう、というのは、わかります。それがイヤですね。時間ももったいないですし、それにより発生する精神的なストレスも、無用です。
ストレスというのはメンテナンスによるものでしょうね。家や車は、途中で壊れる。ペットは病気をする。そういうとき自分は、全力で復旧させようとするでしょう。「責任を感じて」。。
自力でメンテナンス可能なもの、そう感じられるものであれば、所有してもよいのでしょう。そこが自分の判断基準ですね。
たとえば土地のように、放置可能であればよいのでしょう。メンテナンスフリーで。

メンテナンスも金で買えればいいのです。それで何ら問題は発生しません。メンテナンスのフルアウトソースを含めた所有だったら自分のストレスもたまりません。(メンテナンス費用が莫大でなければ、の話)
メンテナンスを知人に託す、となるとそれはそれでまたストレスなのでしょうね。気疲れするというか。


じゃあなぜ、私以外の他人はデカいものをばんばん所有し、あるいは所有しようとするのでしょうか。
皆、やっているのですよ、メンテナンスを。