元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

板橋 ゼネラリストは個性となりうる

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「ゼネラリスト」について書き出したことはそれほどないように思います。「ゼネラリスト」という概念は自分にとって重要なキーワードになっていた時期がありました。

大人になってみて、他人と自分との比較で、初めてわかったことがいくつかあります。
たとえば、自分はずっと字を書くのが上手ではない、と思い続けてきたのに、世の中には相当字が汚い人たちがたくさんいるのだ、ということがわかりました。今は、自分は字はうまいほうなのではないか、とすら思えます。
また、泳げない人がけっこういる、ということ。プールがない学校だったという話も聞きます。自分の田舎は教育が画一化されていたので、プールがない学校というのはあり得ない話でした。
ですので自然、泳げるようになりました。


他には、左利きが多いということ。自分は、本来左利きだったようですが、お箸とえんぴつについては、矯正しました。後から聞いたところによると、無理やりではなく、自主的にやっていたそうです。幼稚園や小学校などでクラスメートにちょこっと左利きのことについて言われて気になったのか、あるいは言われる前にすでに、周りがすべて右でえんぴつを持っているのに自分だけが左である、という状況にプレッシャーを感じていたのかもしれません。
その頃の自分は褒めてあげたいですね。その若さで自主的に行動していたという。。
すぐに右に矯正できる柔軟性も含めて。


音楽の要素が皆無の人を見かけます。普段、音楽を聴かず、子供の頃楽器を習ったこともなく、クラシックの定番(第九とか)も知らず。。
その人が受けた「躾」「教育」の中に「音楽」という要素がすっぽりと抜けているのです。これは、その人の問題ではなくて、方針の問題だというのはわかります。また田舎の話になりますが、田舎で普通に教育を受けていると学校の音楽の授業や鼓笛パレードの練習などで音楽、楽器に触れる機会は多かったと思います。

また、田舎にいると都会の情報、流行り歌に敏感になるので、歌謡曲には触れる機会が多くて、その流れで、大人になっても「ふつうに」音楽は生活の中に溶け込んでいたりします。
私の中では、時代時代の流行歌が身体の中に染み込んでいて、これらは自分にとって良き「教養」のようなもの(歌謡曲ですから厳密には「教養」とは呼ばれませんが)になっています。
街で懐かしい曲がかかっていると「走馬灯スイッチ」が入ってしまいます。

あまり親しくない人と話すときに、「若い頃どのような音楽を聴いていたか」という切り口でいっても「音楽は別に。。」と、乗ってこないことが多いです。
じゃあ何かハマっていたか、と聞いても「特に。。」という感じで、それにも乗ってこない人もいますが。。 そういう人は失礼ですが、おそらく「教養」というものはありません。偽個性化教育の失敗作品なのではないか、とすら思いますね。
そのときの流行りすたりであれもこれもやってみようと思ったが全部長続きしなかった、そのために、他人に「これにハマっていた」と誇れるものがない、という推測はけっこう正しいのではないかと思います。


極端な運動音痴の人が多い。これも、音楽の話と根っこは一緒でしょう。
自分の田舎では、誰でも半ば無理やりに運動させられていたので、大人しい子も極端な運動音痴ではなかったような気がするのです。出来ないから、といってやめなかったということです。ある程度やってみて、下手なままで終わったとしてもそれでよいのです。
極端な運動音痴の人って、スタイルとして酷いような気がするんですよね。。 「身のこなし」の問題になってきます。運動という素養がなければ「颯爽」と歩くのはムリでしょう。


などなど、田舎でふつうに「文武両道」教育を受けて都会に出てきてみると、極端に「できない」を持っている人が多いのに驚き、自分が受けた教育に感謝することも多々あるのですが。。
本当は、真逆の、極端に何かができる、という人たちにめぐり合いたいのですが、そのような機会がなかなかないのです。
画一化の教育から逃れた結果として、「やりたくないことはやらなかった」という選択ができた人もいれば、「やりたいことだけやった」という、ひとつの分野で秀でた人も必ずいるはずなのです。
が私の生活範囲で目立つのは前者ばかり。。
それと、今思い出したのですが、「ひとつの分野で秀でた人」は、地方出身の方のほうが多いような気もしています。首都圏のほうが画一化の教育から逃れやすいのかと思っていたのですが、そうでもないのでしょうか。


あるいはそれは「教育」とは関係のないもので、やはり素養の問題なのでしょうか。


どのように話が転がるのか、わからなくなってきました。。 


私が言いたかったのは、「ゼネラリスト」は十分個性として勝負できる、ということです。「なんでもそれなりに」できる人はそれほどいない。
これが、教育の話につながるのかもしれないし、「横文字職業に対する嫌悪感」の話にリンクしてゆくかもしれません。

このへんでおひらきにしましょう。