元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ナツカシいということ、アソぶということ

【トピック】
特になし
【活動】
引き続き、赤坂一丁目(六本木通りを越えた虎ノ門界隈)を散策。
ホテルオークラで一休み。
【今日想い出した唄】
意表をついた唄を思い出したのですが、忘れてしまいました。
【雑感】
[「ナツカシい」]
自分は都心のいろんなところを散歩したり、食事をしたりしていますが、これがいわゆる「遊び」なのかどうかがわかっていません。飲みの席とかで出てくる「オレも昔はアソんだな〜」というときに使われる「アソビ」という言葉についての話です。
盛り場に行ったり、旬のスポットに行ったりするのが「アソビ」だとすれば「アソんで」はいません。なぜならば、おそらく、それが「アソビ」だとするとその行為はそれほど好きではないからです。
ただ、「アソビ」には常に憧れはありますね。。これも自分のひとつのテーマかもしれません。スポットライトのあたる場にいる集団のうちの一人でいたい、という欲求でしょうね。
ところで、「懐かしい」という言葉は、現代では乱発されており、「ナツカシい」というカタカナ表記で独立させてもいいぐらいだと思います。「ナツカシい、よくアソんだな〜」と人々が回顧するときに、それはどのぐらいの深度で「アソんだ」のか? といえば、実は1回しか行ってなかったりするものです。
田舎の人間にとっては、一度の東京旅行、歌舞伎町で飲んだことが「ナツカシい」話として数十年、酒の肴になったりします。
それを批判したいのではなくて、誰でも「ナツカシい〜」と言う資格はあるだろう、ということですね。
10年ぶりぐらいの土地に降り立つと、そこが、若いころ頻繁に通ったところであっても、1回だけ行ったところであっても、深く「アソんだ」ところでも単に買い物に行っただけであっても、懐かしい思いは沸き立ってきます。懐かしさの深度は、もはや自分にしかわからないものです。

でも、若い世代が「ナツカシい」を連発するのには違和感を感じます。深い「懐かしみ」と我々が軽くつかう「ナツカシい」はもはや違う言葉だということは頭でわかってはいるのですが。